④試験の中身と、実際の仕事の内容が、あまりに違っている場合には、試験の結果よりも、現実の仕事における能力や実績の方を重視して、再度、ゼロから評価し直した方が賢明である
第四には、これもよく考えてみると非常に不思議なことなのですが、現在の日本の試験だと実務試験のようなものは、わりとすぐに仕事で使えるような実務の内容が問われることが多いのですが、ところが知識主体の試験になってくると、なぜか、「これって、実際には、ほとんど使えないよね」というような、わりとペーパー知識オンリーのような試験を、いくらでも平気で実施してくるようなところがあるのです。
その結果、これは現在、私達の身の回りで新聞や週刊誌などで、ほぼ毎日のように取り上げられるような話題の一つになっているのですが、公務員試験はパスしたけど、結局、国民のために奉仕するというよりも、日々国民のお金を使い潰すことに精力を尽くすような仕事ばかりしている公務員が山ほどいるとか、教員試験は合格して、無事、教師にはなれたけど、教壇で一人で、ぶつぶつ意味不明の独り言をつぶやいているだけで、結局、生徒のお荷物のような仕事しかできないような教師なのに、どこからも何の自己改善も迫られずに、だらだら何十年も同じような仕事を続けているなどというような人間が、現在、この国には、あちこち隠れるように非常にたくさんいるようになってしまったのですが、それもこれも元をたどれば、今述べたように試験で問うていることと、実際の仕事の中身が、あまりにもずれ過ぎているのに、それを多くの人々は、「試験の結果は、絶対に正しい」とか、「難しい試験を突破した人間は、とにかく偉い」などと深く思い込んでいるためか、政府に対して、何の追及も改善も迫ろうとしないからなのではないか、というように私は率直に考えております。
それゆえ、本当はこうした試験のケースの場合は、まず、そうした試験の資格の基準そのものを普通の人が、ものすごく難しいと感じるようなレベル(こうした難しい試験にしておくことが、試験にものすごく権威をもたせるために絶対に必要なトリックの元になっています)から、かなり下げて、はっきり言うと高卒や大卒ぐらいの人なら、ある程度勉強したり、実技の実習をすれば、すぐに合格できるという程度のレベルに下げて(こうした試験すら必要ない仕事も数多くありますが)、それで、そうした難しい試験に合格したら、その人の社会的地位や仕事(もっとはっきり言うと、一ランク上の社会的身分のようなもの)は、国家が永久保証というような現実無視のめちゃくちゃな試験の結果保証のようなことは一切止めて、とりあえず普通の会社の仕事と同じようにその仕事に就かせてみて、その上で、その人の人格や能力や実績をある程度、客観的な第三者であるとか、その仕事によって、サービスの恩恵を受ける顧客や普通の一般市民の人達が、直接評価することによって、その人が、その仕事に末永く就くことが、本当にその人の適性に合っているのかとか、それから、その人は一体、どの程度の地位や収入がふさわしいのか、ということを、その後、一定期間ごとに決めてゆけばよいのではないか、というように私は考えております。
これが現代の日本だと、「試験を通過した人は、絶対に無前提に大丈夫で偉い」とか、「そうした審査や評価は、普通の人では全く信頼できないので、どこかの偉い人が勝手に決めてくれれば、それが一番いい」などということに、すぐになりがちであるのですが、しかし、ここ数十年の日本の現状を見れば、誰でも分かるように現実の日本の社会では、「難しい試験を突破した人に政治家や役人や教師をやらせていたけど、結局、彼らは、それほど人格者でもなければ、有能でもなかった」とか、「ものすごく偉いと言われているような人に、そうした、いっけん難しそうな決定とか、審査のようなものをやらせていたら、そうした分野は、ほとんど全部、賄賂や接待や天下りといった隠れた特権や不正な収入の温床になってしまっただけだったので、それくらいなら、その辺の普通のサラリーマンや主婦の人達にそうしたことをやってもらっていた方が、よっぽど良かった」などというようなことになってしまっているのですが、結局、こうした、ここ数十年における国民全体の経験則に基づく限り、難しい試験を合格した人や、一般に偉い人と言われているような人というのは、それほど、ものすごい清廉潔白な人格者というわけでもなければ、何でも完全にこなせる、ものすごいスーパーマンのような大天才でもなく、また瞬く間に大事業を創り上げてゆくような大起業家や大経営者のような人物でもなかったというのが、歴史の結論だったのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)