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試験が、絶対正しいとは限らない Part 3

③公立学校の試験や国家試験が、絶対に公正で正しいというのは、現実無視の単なる幻想に過ぎない

 第三には、これも学校生活での体験が効いていて、ほとんどの人が、ほぼ無前提のうちに「偉い人の判定や評価は、絶対に正しいはずだ」とか、「上の人に逆らっても、怒られて却下されるだけなので、何の意味もない」などと深く信じ込んでいるためか、なぜか、ほとんど誰も怪しむこともなければ、心配もしないような不思議な内容になるのですが、これだけ何度も私立高校や私立大学で、いろいろな不正入学が摘発されてきた国なのに、なんで「公立高校や国立大学だけは、絶対に一切不正なんてあり得ない」などと多くの人々が深く信じ込んでいるのか、私には全く理解できないのです。

 実際、よくよく世間を見渡してみれば、「なんで、あの人が、あの学校に行けたのか?」とか、「教師の子供は、なぜか、まるで世襲制のように、また教師の仕事についていることが多い」などというように、現代の日本にも不思議なことはたくさんあるのですが、ところが、ここでも学校生活の呪縛がしっかり効いているらしく、なぜか、みんな一様に、こうしたことについては、何の疑問も持たないばかりか、また、こうしたことを突っ込んで調査するような組織も手段も、この国には、実質的に一切ないようになっているのに、誰もそのことを全く不思議とすら思わない、というような非常に奇妙な状況になっているのです。

 このように試験制度というのは、現代の日本のように多くの人々が、「とにかく何でも偉い人の言う通りにしていれば、絶対に正しいから大丈夫!」などというような現在の学校で、よく叩き込まれるような人間の上下の感覚、つまり「教師」と「生徒」とか、「父母」と「児童」とか、「先輩」と「後輩」などというような一種の身分の概念、というか、もっとはっきり言うと一昔前の「王様」と「奴隷」とか、「殿様」と「家来」のような、まるで王制や封建制のような考え方をしていると、実際には、かなり危険なところがあるのではないか、というように私は率直に考えています。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2010年11月16日 9:25 PM, 教育 / 知恵、正しさ / 社会、文化



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