前回に引き続き、もう少し教育の話をしてゆきたいと思います。
3、大学生活や社会生活に入って、突然、大きな自由を手に入れた人の中には、そうした自由を持て余して間違った方向に進んで、みすみすカルト宗教の餌食になったり、精神的におかしくなってしまうことがある
第三には、これも多くの人が、すでに経験したことなのではないかと私は思うのですが、どこかの誰かが決めた正しい答えや決まりだらけの学生生活を終えて、ちょっと自由な大学生活や社会生活を始めるようになると、ここでたいていの人は、それまで全く感じたこともなかったような、ちょっとした違和感であるとか、精神的なジレンマのようなものを結構、切実に感じるようになることが非常に多いということです。
それは、これまでの自分の人生の中では、常に自分より目上の人がいて、「あれをやれ」、「これをやれ」とか、あるいは「これをやってはいけない」とか、「それもやってもダメだ」などと結構細かく、あれこれ指示されたり、従ってついてゆけばよかったはずなのに、そうした大学生活や社会生活を始めるようになると、最低限やらなくてはいけないことはそれなりに細かく決まっているけれども、それ以外のことは、はっきり言って、「そんなこと誰も興味もなければ、全く責任も持ちたくないので、そうした学業や職業に関係ない個人的なことについては、もう自分で勝手に好きなようにやってくれ」などという具合に突然、自分が自由に決めたり、行動できる範囲が大きく広がるようになるからなのですが、そうした際にそれまでの十数年の人生の中で、その人の親などが、自分一人だけでもある程度正しいというか、社会的に安全で合理的な判断をしっかりできるように育ててくれなかった場合には、そうした人というのは、これはみなさんも結構身近に見たことがあるのではないかと私は思うのですが、その後、精神的にかなり不安定になって、何らかの自分の確かな精神的な拠り所になるようなものを一生懸命探そうとし始めることが非常に多いということなのです。
その結果、たいてい、そうした人というのは、書店やインターネットなどで、さまざまな自己啓発ものの書物や知識を貪るように探すような状況に陥ることが非常に多いのですが、ところが、先ほど述べたような教育訓練を十数年も受け続けてきたような人というのは、「一人一人の個人がしっかりと自分自身の意思でもって自分の行動を決める」というような考え方ではなく、ともすれば、「誰か自分よりものすごく偉い師匠や先生のような人について、その人の言われる通りにやっていけば、自分の人生はすべて良くなるのではないか」というような考え方に結構引かれがちであったということなのです。
そうすると、ここで運良く本当に素晴らしい師匠や先生のような人物に出会えた場合には、これは「本当にラッキー!」というくらい、こうした出合いによって、その人は生涯、幸福で成功した毎日を送れる可能性も確かにないこともないのですが、実際には、そういう人というのは本当にわずかで、それ以外の大多数の人々というのは、それなりの迷いや試行錯誤の中でだんだん「本当の自分らしさ」であるとか、「自分だけの人生」というものを見つけてゆくものなのですが、ところが、ここで一定の割合でもって、いわゆるかなり間違った怪しい師匠や先生を選んで、そのままついていってしまったために、その後の数十年の人生において、後から考えてみるとかなり大きなダメージを被ることになってしまった、というような人が結構数多く出てくることになってしまうということなのです。
つまり現在の日本の学校のように、その人の人生で最も大きな影響を受けることになるような十数年もの間、何千回、何万回と「世の中には、常に絶対に正しい答えがある」とか、「立派な先生についてゆけば、絶対大丈夫だ」とか、「自分を一方的に評価したり、裁いたりできる人がいる」などというような、はっきり言うと、かなり偏った危うい人生観ばかり押し付けるようなことばかりしていると、その後、大学に入ってからとか、社会に出てから、いつの間にか訳の分からないカルト宗教にはまって人生を棒に振ってしまう人や、社会との不適応で精神的におかしくなるような人がたくさん出てくることになるので非常に問題があるということなのです。
追伸
つまり学校でものすごく優秀だった人が、意外なことにその後、五月病とか、結構重い精神病になってしまったとか、その後、カルト宗教の信者になって人生を棒に振ってしまった、というような今日の日本によくありがちな出来事の背景には、実は、現在の学校のあり方そのものにその根本的な原因があったということです。
その解決策については、次回以降、少しずつ述べてみたいと思います(続きは、こちらです)。
Cecye(セスィエ)