それでは、こうしたことから、いったい、どのようなことが言えるのか、というと、だいたい次のような内容になります。
たいてい宗教や思想の場合には、多くの人々が、わりと自由に感じたり、考えたりできるような、ある程度の感じ方や考え方の自由の幅があるようなところがあります。
ところが政治権力の場合には、多くの人々の感じ方や考え方どころか、日頃の行動の仕方や、仕事や生活の仕方に至るまで、ある一定の枠に収まるように、かなり強力に従わせられるような非常に強い強制力を持っているようなところがあるわけです。
それゆえ、どんなに素晴らしい宗教や思想であったとしても、そうした宗教や思想に基づいた政治を100パーセント実現しようとすると、はっきり言って、宗教や思想であっても、政治の世界であっても、一見、ほぼ同じような印象を持たれることがあるかもしれないのですが、しかしながら一人一人の人生において、わりと自由に柔軟に感じ方や考え方を選べる宗教や思想の立場と、そうではなく、一人一人の毎日の細かな行動の仕方に至るまで、かなり厳しく規制したり、強制したりできる政治の立場とでは、かなり大きな違いがあるものなのです。
ですので、一人一人が、わりと自由に柔軟に、それぞれの人が好きなように感じ方や考え方を選べる宗教や思想の内容を、多くの人々に対して、それぞれの人の自由や柔軟さをほぼ完全に否定するような形で、かなり画一的に、時には強く利益誘導したり、厳しい罰を与えたりするような形で、強く強制できるような政治の世界にそのまま持ち込むことは、はっきり言って、それぞれの人への感じ方や考え方などへの精神的な影響力としては、かなり大きな違いがあるものなのです。
それゆえ、たとえ多くの人々が、絶対に正しいと感じているような非常に素晴らしい宗教や思想があったとしても、それが宗教や思想のような形で、わりと自由に柔軟に感じ方や考え方を選べるような状況になっているのであれば、多くの人々は、わりと素直にそうした宗教や思想の精神的な恩恵を、たくさん受けられるようになるかもしれないのですが、しかし、そこに政治的な強い強制力が伴ってくると、途端に強い不満や怒りを感じたり、また場合によっては、そうした宗教や思想自体を強く否定するような状況になってゆくこともある、ということは、ある程度客観的に理解すべきなのではないか、というように私は考えております。
※つまり政治家が、個人の努力を重んじたり、相手への愛や思いやりを大切にするような宗教的な理想を大事にすることは、とても良いことであると思うのですが、そうした何らかの宗教的な理想のようなものに基づいて、多くの人々の生活を厳しく締め付けるような政治を行うことには、かなり問題が多いのではないか、ということです。
続く・・・
Cecye(セスィエ)