それでは、こうした現在のような世界の人間の置かれた状況では、いったい、どのように考えてゆくのが最善なのか、というと、ここでは、幾つかの例をあげながら説明してゆきたいと思います。
たいてい多くの人々は、日頃は、ほとんど気にすることもないと思うのですが、はっきり言ってしまうと、それぞれの人が、様々な物事を認識している能力には、かなり大きな違いや制限があるものです。
少し極端な例になるのですが、ここでは例として、ある人が、非常にきれいな花や、とても汚いゴミなどを見た際に、いったい、どのように感じたり、考えたりするのか、ということについて、考えてみたいと思います。
例えば、ある人が、そうしたものをパッと見た際に、「わあ、きれいな花だ!」「汚いゴミだ!」などと感じたとします。
しかし、もう少しよく見たり、話を聞いた後には、「これはとてもきれいだけど、よく見たら本物そっくりの造花だったようだ」「暗がりでよくわからなかったけど、よく見てみたら、これは誰かが作ったアート作品だったらしい」などというように、かなり判断が変わってくることがあります。
そして、例えば、さらに別の人の話を聞いた後には、「きれいな花を育てるには、とても大変な手間ひまや努力が必要らしい」「ゴミをリサイクルすると、こんなきれいな製品に生まれ変わるのか」などというように、もっと幅広い物の見方をするようになってくることもあります。
その後、さらに専門家の話を聞いたり、自分自身で様々な経験を積み重ねた後には、「この花は、こういう飾り方をすると、もっときれいに見えるんだ」「自分で植物を育てるようになると、もっと一つ一つの植物を大切にしなくてはいけないと思った」「ゴミが、ほとんどで出なくなるような生活にするために、自分も少しでも何かやってみたいと思った」「砂浜のゴミ拾いを手伝うようになってから、ゴミを自然の中に無責任に捨てるなんて、自分は絶対にしてはいけないと思った」などというように、同じ物事を見聞きしたり、体験したとしても、そうしたそれぞれの人の知識や経験の差によって、かなり大きな感じ方や考え方の違いが生じてくるものなのです。
Cecye(セスィエ)