つまり、もっと簡単に言うと、この人間の社会において、かなり立派な賢いと言われているような人であっても、その人の判断や行動の根っこの部分は、それまでその人が過ごしてきた20歳前後ぐらいまでの学習や経験などによって、かなり大きく決められてしまうようなところがあるのです。
ところが、そうすると、たとえ、どんな立派な学校を卒業して、その後、社会において、どんな立派な実績を積んできた人々であったとしても、そうした認識上の制約を抱えた人間どうしが、意見の交流を行った際に、そうした人々の間の大元の認識が、あまりにも大きく食い違いすぎているような場合には、「普通の人はこう考えると思うのですが、あなたの言ってることは、何だか全然わからない」「私達の周りの人々は、ずっとこうしてきたのに、あなたの周りの人々は全く違うのですね」とか、さらにもっとひどくなってくると、「それでは話が違いますよ。なぜ、普通の会話ができないのですか?」「我々の価値観からすると、あなたの言ってることは、まるで気狂いに感じますよ」などというような感じで、なかなか、お互いの話がまとまらないどころか、それ以前に、そもそものお互いの理解や共感のレベルから、全く歯車が合わないような状況になってしまうこともあるようなのです。
ですので、こうしたかなり大きな人間どうしの認識のギャップがある場合には、たいてい、お互いに受け入れられるような交流関係のベースを築くと、何度も地道な交流の機会を持ったり、また、お互いに相手の国々の社会や生活の様子を見に行き合うようにしたり、様々な物品やサービスの輸出入や文化的な交流を積み重ねるようにしながら、ある程度時間をかけて、お互いの理解と協力をより深めてゆく中で、より親密で高度な人間関係を築いてゆこうとすることが多いようです。
Cecye(セスィエ)
2022年5月28日 9:04 PM, 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 愛について / 政治 / 教育 / 知恵、正しさ / 社会、文化 / 経済