仏教における悟りと救済について
ここでは、仏教において、多少ややこしい、というか、非常に難しい概念として扱われているような内容、つまり仏教というのは、一人一人が、ある程度、厳しい修行を通して、悟りを得てゆくような教えなのか、それともキリスト教のように「大日如来(だいにちにょらい)」や「阿弥陀仏(あみだぶつ)」のような偉大な仏の救済を信じて、加護や御利益(ごりやく)を得て、救ってもらうような教えなのか、ということについて、少しだけ述べてみたいと思います。
おそらく、たいていの人には、こうした内容は、かなりごちゃごちゃした感覚で理解されていることが多いのではないか、と思われるのですが、はっきり言って、元々、釈迦が説いた原始仏教(初期仏教)では、現在残っている経典を読んでみても、当時のインドやアジアの神々を信じて、救いを得ようなどというような姿勢は微塵(みじん)もなく、釈迦が発見した偉大な真理の教えはあったとしても、一人一人の人が、かなりきっちりした修行をすることによって、心の平安と来世の救いを得てゆこうとするような教えであったことは、現代の仏教研究では、ほぼ完全に明らかになっているのではないか、というように思われます。
ところが、後の時代の仏教では(特に大乗仏教では・・・)、そうした元々の釈迦の教えとは、かなり違った仏教の教え、例えば、偉大な阿弥陀仏に帰依して、極楽浄土に往生(おうじょう)しようとか、大日如来を初めとするような様々な仏や菩薩達を心に念じて、そうした偉大な仏や菩薩達の加護や御利益を得ようとするような仏教の教えの方が、だんだん、かなりメジャーになっていってしまったようなところがあるわけです。
Cecye(セスィエ)
2021年10月19日 9:03 PM, インド思想、ヒンドゥー教 / おすすめ記事 / キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 中国思想 / 人生観、世界観 / 仏教 / 宇宙文明、古代文明 / 宗教、道徳 / 知恵、正しさ