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霊的、現代的な観点から見た仏教の教えについて Part 17

 それは元々、釈迦が説いていた「空」の教えとは、かなり違った内容になるのですが、簡単にまとめると、だいたい次のようなことが言えます。

 それぞれの人の心の中を、空的な意識の状態にしておけば、確かにそれぞれの個人としては、執着を離れた、わりと透明な精神状態になって、あまり大きな苦しみを感じることは、少なくなってゆくようなところはあったのですが、ところが、よくよく冷静に自分達の周りの世界を見回してみれば、たとえ数百年の歳月が過ぎて、様々な国々で仏教が、国教的な扱いになっていたとしても、相変わらず、戦乱も飢饉も疫病もあれば、醜い人間的な衝突や葛藤もあったので、はっきり言ってしまうと、どう考えてみても、多くの人々が考える仏教的な理想世界とは、全く、ほど遠い世界の姿になっているようなところがあったわけです。

 そうした際に、おそらく最初の時点では、そうした「空」の拡大解釈は、ほぼ完全に釈迦の教えを、かなり大きく曲げるような内容であることは、重々承知な上で考えたことなのではないか、と私は思うのですが、かなり簡単に言いきってしまうと、「自分の心だけじゃなく、自分の体もないのだ、と考えると、気分がすっきりして、本当に楽な気分になれる」とか、「この煩わしい、いつまで経っても醜く汚い、自分達の周りの世界も、ことごとく、すべてないのだ、と考えると、本当に気分が楽だし、すごく救われた気分になってくる」などというような具合に、元々は、精神的な修行論として考えられていた「空」の教えを、「自分自身や他の人々や、身の回りの世界も、本当はないのだ」などというような存在否定論に置き換えて、強く信じ込んでしまうような心の持ち方をすると、それまで、どうにもできなかった自分自身や他の人々や、身の回りのあらゆる問題が、ほとんど大した努力をすることもなく、一挙に、まるですべてなくなってしまったかのような、かなり意外な形の宗教的な救いのような感覚が得られるようなところがあったからなのではないか、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2021年6月19日 9:10 PM, インド思想、ヒンドゥー教 / 人生観、世界観 / 仏教 / 宇宙文明、古代文明 / 宗教、道徳 / 歴史 / 瞑想 / 知恵、正しさ / 社会、文化



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