また時折、仏教の教えでは、釈迦の教えの権威が、あまりにも高くなりすぎて、「釈迦の教えであるダルマは絶対なので、同じ発音である存在のダルマも絶対的な存在なのだ」(ダルマは、「法」と訳されています)とか、「空的な心掛けで生きるのではなく、自分も世界も空なので、本当はないんですよ」などといった、ちょっと過激な教えの解釈をすることもあったようです。
釈迦自身は、どちらかと言うと、理屈ばかり言っているようなタイプではなくて、苦行も含めて、当時の最先端の解脱するための方法を、実際に自分の身である程度きっちり実践した上で、自分なりの悟りの方法を見出した人物であったようです。
ですので、そうした観点から考えると、おそらく当時の釈迦は、実際に見聞きできたり、触ったりできるような物質的な存在を、むやみに何でもかんでも「本当はないのだ」などと言ったりするようなことは非常に少なくて、そうではなく、「自分自身の肉体も含めて、身の回りの物質的な存在に対して、あまりにも強く自分の意識を合わせすぎないような、空の意識で生きてゆきなさい」などというような「空」の教え、つまり存在するか、しないか、というような存在論としての「空」ではなく、精神的な修行論としての「空」的な意識の大切さを述べたのではないか、というように思われます。
Cecye(セスィエ)
2021年6月15日 9:04 PM, インド思想、ヒンドゥー教 / スピリチュアリズム、霊界 / 中国思想 / 仏教 / 宗教、道徳 / 知恵、正しさ