仏教の「空」の教えが、とても難しく感じられる理由について
ここでは、仏教の「空(くう)」を例にして、仏教の教えが、なぜ難しく感じられるのか、ということについて、少しだけ考えてみたいと思います。
一般に仏教の教えでは、「空とは、すべての法(存在)は、因縁によって生じたものなので、実体はなく、虚しい」などというような説明をされていることが多いようです。
※この場合の仏教用語の「法」は、ダルマ、つまり宇宙の法則や真理、仏教の教えなどの意味ではなく、存在の意味になります
おそらく仏教について、ある程度深く学んだ人であれば、こうした仏教の教えに関して、それほど大きく間違った理解をしているとは、私も思わないのですが、ここでは、そうした観点ではなく、なぜ大多数の普通の人々は、こうした仏教の教えを聞くと、ちょっと訳がわからないような感覚になりがちなのか、ということについて、少しだけ述べてみたいと思います。
たいてい普通の人が、「空(くう)」という言葉を聞くと、「ああ、空っぽのことかな?」「何もないって意味かな?」などと考えることが多いと思います。
仏教の「空」の説明では、その後にすぐに続けて、「すべての存在」とか、「因縁によって生じた」などと説明されているので、おそらく、たいていの普通の人が聞いていると、「ないって意味だと思ったのに、すべてのあるものってなんだ?」とか、「因縁って、原因と結果のつながりや、他の人や物との関係のことなのに、何を言ってるのかな?」などというような感想を持つことが多いようなのです。
これをわかりやすいように世間の普通の会話の流れに喩えて、説明すると、こんな感じになるのですが、まず最初に「ここには、何もないんです!」と言われた後に、突然、前後の脈絡も、ほとんどよくわからないような状況で、次々と「ここには、たくさんのリンゴの木があって・・・」とか、「この小さなリンゴの苗が、やがて大きくなって・・・」とか、「リンゴの木の他にも、ミカンの木もたくさんあるんです・・・」とか、「だから、とてもむなしいんですよ」などというような説明を、次々と難しい仏教の専門用語を交えながら、矢継ぎ早に聞いているのと、あまり違わないようなところがあるわけです。
そうすると当然のことですが、たいていの人が知っている知識や経験や考え方とは、突然、かなり関係ない言葉の言い回しが、次々と連続して出てくることになるので、結局、そのために何が何だかわからなくなってしまうのではないか、ということなのです。
つまり、もっと簡単に言うと、「何もない」と言った後に、突然、「たくさんある」と言い出したり、「それでは、そこにたくさんあるのかな?」などと思っていると、突然、そうした思考には、あまり関係なく、「いや、昔はこうだったんですよ」とか、「この後は、こうなっていくんですよ」とか、「別のものにも関係してるんですよ」などというような話を、「空」、「法」、「因縁」などというような、結構難しそうで権威のある仏教の専門用語を、次々と並べて説明してくるので、それで、たいていの普通の人々は、「なんだか、わかったようで、わからない」とか、「何となく、すごい感じはするのだが、よく考えてみると、何のことだか、よくわからない」などというような感覚になりがちだったのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2021年6月4日 9:03 PM, インド思想、ヒンドゥー教 / 中国思想 / 人生観、世界観 / 仏教 / 宗教、道徳 / 瞑想 / 知恵、正しさ