それでは、こうした状況に関して、いったい、どのようなことが言えるのかというと、特に日本のような社会の場合、少し前の時代までは、人口が多い上に比較的寿命も短く、まだまだ身分制的な上下関係の考え方が強いようなところがあったので、たいていの場合、社会で大きな問題を起こしたり、大失敗したような人には完全にやめてもらって、一生、地味に暮らしていてもらえばいい、というような考え方が強かったように思うのですが、ただ現在のように、だんだん人口が減ると共に寿命が伸び続けてゆくような社会では、たとえ人生のどこかの段階で大きな問題や失敗を犯したような人であったとしても、それ相応の反省や償いをしたのであれば、再度、ゼロから活躍できるようなチャンスが、何度も与えられるような社会にしていった方がよいのではないか、と思います(あまりにも重度の犯罪を犯したような人の場合には、多少話は別になるのでしょうが・・・)。
それというのは、一度、大きな失敗をした人は、たいてい、その後、かなり慎重な、打たれ強い性格になることが多いので、そうした人に何度も成功するためのチャンスが与えられているような社会になっていた方が、社会の風通しが良くなってよいのではないか、ということと、それから、そうした人が再びチャレンジして、成功するような姿を見せることは、若い人々に対して、「たとえ何度失敗しても、人生をやり直すことは可能なのだ」という良いお手本を見せることになるのではないか、と思われるからです。
それから、先ほど述べたような世間の人々から見えるその人のイメージと、実際のその人の姿とのズレについてなのですが、確かに自分の客観的な評価やイメージが高いと、たくさんの人々から褒めてもらえたり、たくさん仕事が取れて、良いことも多いのですが、ただ、世間の人々から見えるその人のイメージと、実際のその人の姿が、あまりにも大きくズレすぎてしまうと、だんだん、「彼は、ものすごく良い人だと思っていたんだけど、実際には、そうでもなかったなあ」とか、「世間の人々からの期待が高すぎて、成功して有名にはなったんだけど、気楽に好きなことができなくなったので、とても不幸だ」などというような状況になってしまうこともあるようなので、世間の人々から見えるその人のイメージと、実際のその人自身の姿が、あまりにも大きくズレてきたように感じた際には、多少、実際のその人の性格や言動を見せるようにして、世間の人々から見えるその人のイメージをある程度、実際のその人の姿に合わせる必要があるのではないか、と思われます。
追伸
少し前から一部の人々の意識が、現在ではなく、少し昔の時代の、しかも、それぞれの人にとって、結構大変だった時期の意識に逆戻りするような、少し不思議な異次元的な現象が起きていたようなので、最近、多少、混乱した人がいたかもしれません。
現在、少しずつですが、元の状態に直ってきているところです。
Cecye(セスィエ)