もちろん、そうした立場に置かれたことのない人は、「なんで、こんなひどいことしたの?」とか、「まったく迷惑な話だ。あいつらは、なんで、あんなとんでもない、ひどいことをしたんだ」とか、「ああ、あの人は、また、とんでもない悪事をやらかしたらしい」とか、「こんなことも知らないで、警察に捕まったの?」とか、「そんなこと我慢できて当然なのに、馬鹿じゃないかしら」とか、「あいつらは、とんでもない侵略者で犯罪者だ」などというように、わりと単純な善悪に基づいた感想を持つことが多いものなのですが、ところが、そうした大きな間違いや失敗をするような人というのは、たいてい、そうした状況になるまでには、結構、それなりの生まれや生い立ちの経緯があったり、また結構、とんでもない感じで、まるで他には、何一つ選択肢がなかったかのように、心身共に、すっかり追い詰められた状況になっているようなことも、意外と多いものなのです。
ですから、現在も多くの人々は、これまでの時代とほぼ同じように、「これは善いことで、やっていいことだけど、これは悪いことだから、絶対にやってはいけない」というような、わりと単純な善悪の価値観に基づいて、生きていると思うし、また、現在の社会の制度としても、国民の代表の人々が定めた法律によって、そうした、わりと単純な善悪の価値観に基づいた社会の運営をするのが、現在のところ、最善であるとは思うのですが(昔は、かなりひどい取り締まりや裁判や刑罰が行われていた時代も多かったので・・・)、ただ、実際の世の中というのは、そんなに単純な善悪ばかりで動いているのではなくて、「本当に単に知らなかったために、大きな間違いを犯してしまった」とか、「ちょっとした不注意や弾みで、後から考えると、とんでもない大失敗をしてしまった」とか、「精神的な衝動として、どうしても我慢できなかった」とか、「お金や仕事がなくて、やむなく、そうするしかなかった」とか、「相談する人がいなかったので、とんでもない不幸な状態がずっと続いてしまった」とか、「何らかの理由で追い込まれたり、他の人に脅されたり、お金をちらつかせられたりして、仕方なく、やってしまった」とか、「善いことだと思ったのだが、どこかの段階でしくじったり、やりすぎたりして、大きく失敗してしまった」とか、「体や精神の問題で、やるべきことができなかったために、とんでもない状況になってしまった」などというように、そう簡単に単純な善悪だけでは、推し量れないようなことが、意外と多いものなのです。
Cecye(セスィエ)
2017年9月28日 9:03 PM, 予知、予言、未来予測 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 政治 / 歴史 / 知恵、正しさ / 社会、文化 / 経済