三つめは、そうすると、人間を初めとするような様々な知的な生き物達は、いったいどのような形で、自分自身の魂の欲求と、知的欲求とのバランスをつけてゆけばよいのかというと、結局のところ、最終的な結論は、次のようなものになってくるのではないか、と思われます。
生命の進歩の過程で、だんだん人間のような知的な生物になってゆくと、ある段階から、「あれも知りたい、これも知りたい」というような様々な知的な欲求を持つようになってゆきます。
しかし、残念なことに人間であっても、他の生き物であっても、この物質世界に生きられる時間には限りがあるので、それゆえ、どのような人生であっても、「この世界のこの内容については、これくらいわかるようになったが、それ以外のことは、まあ時折、他の人から聞く程度で、あまりわからなかった」などというような感じで、少しずつ、この世界の様々な物事について知ってゆくしかないわけです。
ところが、そうした形で、様々な物事についての知的な欲求の充足を積み重ねてゆくと、ある段階から、元々は、あれほど自分自身の魂的な欲求として、様々な物事を知ろうとしていたはずなのに、いつしか、どこへ行っても、誰に会っても、自分自身の知的欲求を満足させるというよりかは、自分の身の回りの人々の知的な欲求を満足させるために、「ああ、それは私の知識によれば、こういうことなんですよ」とか、「ああ、それは自分は、こんな体験をしたので、こういうことが一番正しいのではないでしょうか」とか、「ああ、それはこの本を読んだり、こんな人の話を聞くと、よくわかりますよ」というよう感じで、どちらかと言うと、他の人々の知的欲求を満足させるために、様々なことを教え導くような立場に変わっていってしまうものなのです。
もちろん、この世界は広いので、すべての世界のすべての内容について、よく知っているなどというようなことは、普通は、まずは絶対にありえないのですが、それにも関わらず、そうした形で「いろいろなことを知りたい」、「いろいろなことが、できるようになってみたい」というような知的欲求の充足を求めていった人というのは、いつしか単に自分だけの知的欲求を満足させるのではなく、他の人々の知的欲求を満足させるために、様々な機会に、様々な形で教え導くような立場に立ってゆくようになるものなのです。
そして、それが、どんなに未熟な存在のように見えたとしても、一つ一つの魂に、この宇宙の創造主である神仏が、魂から欲求である知的欲求を与えた大きな理由になっていたのではないか、ということなのです。
つまり、そうした魂からの欲求である知的な欲求があることが、一つ一つの魂を、霊的により成熟させ、より優れた存在に進化させてゆくための非常に重要な魂の羅針盤の役割を果たしていたのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2017年3月23日 9:03 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 知恵、正しさ