8、人間の知的欲求の裏には、たいてい何らかの生理的欲求が見え隠れしているようなところがある
八つめは、これは少し深く考え直してみないと、なかなかわかりづらいような話になると思うのですが、実は、人間のような知的生物が、「何らかのことを知りたい」というような知的な欲求を感じている際には、ほぼ必ずと言ってよいほど、次のような幾つかの多少複雑な計算というか、打算を考えていることが非常に多いということです。
一つめは、わりと単純で、たいていの人は、何らかの知的欲求を満たすことで、「いったいどれだけ自分自身や、自分の家族や組織などにとっての利益やリターンが得られるか」ということを、ほぼ無意識のうちに考えていることが多いと思われるのですが、これはよく考えてみると、実は、知的欲求の形はとっていても、本当は肉体的、あるいは生物的な欲求の充足にすぎないのではないか、ということです(時々、何らかの関係から、純粋に知りたいと思うようなケースもあるとは思うのですが・・・)
二つめは、これは、ある程度の年齢になると、ほぼすべての人が、ほぼ無意識のうちに考えているような内容になると思われるのですが、要するに人間のような知的生物は、その人の人生において積み重ねてきた様々な経験に基づいて、だんだん、ほぼ一瞬のうちに「ああ、あれは昔、ひどい目に遭ったのよね」とか、「ああ、これは全然役に立たない情報だ」とか、あるいは逆に「ああ、これはすごく楽しいのよね」とか、「あ、これは前に役立った情報と同じ種類のものなので、今すぐ、しっかり覚えておかないと・・・」などというように、知的と言っても、結局のところ、それまでの自分自身の様々な経験の中から、自分にとって良かったものと悪かったもの、あるいは、自分が得したものと、全然得しなかったもの、あるいは、損してしまったものをしっかり覚えていて、そうした過去の自分自身の経験に基づいて、良かったものや得したものには、パッと即座に反応し、逆に悪かったものや損したものには、全く興味を示さないようになってゆきがちなのではないか、ということです。
そうすると、こうしたタイプの人間の知的活動というのは、本当はある意味で、それまでのその人の人生で培われた生物的な欲求の積み重ねが、姿を変えたものにすぎないようなところもある、ということが言えるようです。
Cecye(セスィエ)
2017年2月9日 9:03 PM, 知恵、正しさ