次には、人間が「わかる」ことと「満足感」の関係について考えてみたいと思います。
それは、いったいどのような内容なのかというと、「人間は、どの程度までわかれば、十分な満足感を見出せるのか」、あるいは、「人間は、いったいどの程度までわかることで、よしとするのか」というような内容になります。
これは一見、簡単そうな内容に思えるのですが、実際には、よく考えてみると結構難しいというか、結構かなりややこしい問題を含んでいるようなところがあります。
大まかな要点としては、四つほどあるのですが、まず一つめは、単に自分が個人的に少し興味があるとか、少しでいいから知りたい、という程度の動機であれば、その人が「ああ、そういうことなのか」とある程度十分に満足できるくらい、そうした物事についてわかれば、それで十分なのではないか、ということです。
二つめは、これは現在も多くの人々が、日々直面しているような課題になるのですが、例えば、学校に通っている人であれば、その学校のカリキュラムの内容として、「最低限、この程度までしっかり理解したり、覚えたり、できるようになってほしい」というような学習目標の程度まで、そうした物事について、わかればよいことになるし、また社会人として仕事に就いているのであれば、そうした仕事で「普通は、この程度までは、しっかり覚えて、できるようになっていないといけない」という程度、そうした物事について、わかっていればよいことになるし、それから、そうしたこと以外の何らかの趣味のようなものであれば、やはり自分自身として、「この程度は、しっかり理解したり、覚えたり、できるようになっておきたい」という程度まで、そうした物事について、わかるようになっていればよいということになります。
つまり、この場合は、その人が個人的に知りたい、わかりたいというような個人的な動機ではなく、その人自身としての何らかの明確な目標や、あるいは、他の人々からの何らかの明確な要求や社会的な基準に基づいて、何らかの物事に関しては、どうしても、この程度はわかっていないといけない、というような状況に置かれているということです。
Cecye(セスィエ)