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人間が、「わかる」ことと「わからない」ことの知的な境界について Part 2

2、たいてい、多くの人々が「わかった」と思う際には、非常に多くの知識や経験や情報を、わりと簡単な短い言葉や数字や動作や行動のプロセスのエッセンスとして理解し直していることが多い

 二つめは、これは、あまり考えたことがない人が多いような話になるかもしれないのですが、たいてい多くの人々が、何らかの物事を「わかった」と思う際には、「ああ、こういう物を◯◯という呼び名で呼ぶのか」とか、「ああ、こんな風に話したり、動いたりすればいいんだ」とか、また、もう少しネガティブな感じだと「こういう風にすると失敗するのか」とか、「知らないで◯◯したら、すっかり怒られちゃったので、これはやってはいけないことだとわかった」などというように、要するに、その時々の自分が見聞きしたり、学んだり、行ったりしていることのエッセンスのようなものを、かなりはっきり理解したとか、何らかの物事の名前や数字ややり方を聞いて、しっかり覚えたとか、あるいは、一見少し難しい事柄を、ゆっくり噛み砕くような感じで、一つ一つはっきり理解したり、できるようになったなどというような時に、「わかった」と感じていることが多いということです。

 もう少し具体的に説明すると、人間が「わかった」と思う際には、例えば、「ああ、要するにこれが一番大事なのか」とか、「ああ、この人は、こういうことが言いたかったのか」というような非常に短い要点的な内容が理解できた時や、「ああ、『民主主義』っていうのは、こういうことか」とか、「ああ、水は『0度』になると凍るのか」というような非常に短い重要な言葉や数字を覚えた時や、あるいは、「ああ、このコツをしっかり押さえれば、うまくいくんだ」とか、「こういう動作の時には、これがしっかりできてないといけないんだ」というような、わりと簡単な動作のコツや行動指針が理解できた時や、さらには、「おいしいコーヒーを作るためには、こうやって、ここを気をつけて、こうやって、こうやらないといけないのか」というような感じで、幾つかの簡単な行動の順序立ったプロセスのようなものとして理解していることが多いということなのです。

 つまり、たいてい、多くの人々が、何らかの物事をはっきり「わかった」と思う際には、かなりたくさんの知識や経験や情報を、いったん頭の中で整理して、非常に短いエッセンスのようなものにまとめて、わりと簡単な言葉や数字や動作や行動のプロセスとして、認識し直していることが非常に多いということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2016年12月1日 9:04 PM, 知恵、正しさ



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