また、これと似たような内容は、言葉や文字だけでなく、様々な物や行為にもあるので、例えば、同じ生の魚を見としても、普段からそうした魚をたくさん食べつけているような人には、単純に「ああ、おいしそうな魚だ」と何の違和感もなく感じられるとしても、それが普段から、そうした魚を全く食べつけていないような人から見ると、「なんで、あんな生の怖いものが食べられるんだ」などと、かなり強い拒絶感を感じることもあるようなので、そうした国や民族や地域といった、ある程度まとまった人数の集団での小さい頃からの体験や歴史的な教訓のようなものは、かなり強い形で、一つ一つの物事に対する感じ方や考え方を決めてしまうようなところがあるようです。
次には、そうした言葉のそれぞれの単語や話し方の問題について考えてみたいと思うのですが、大まかに言うと次のようなことが言えます。
おそらく、どの国や民族や地域の人々であっても、元々は、例えば、「ひと」や「ひつじ」、「き」や「やま」や「もり」などというように何を表しているのかということが、すぐに明確にわかるような簡単な短い単語で、それぞれの物や行為を表現していたように思われるのですが、ところが月日が流れるうちに、どうしても日頃、しょっちゅう口にするような言葉は、だんだんいろいろな形で言葉が省略され、短縮されるようになると共に、日頃、仕事や生活でしょっちゅう使うような言葉に関しては、さらに詳しく専門的な内容がパッと表せるように言葉の数が、どんどん増えてゆくようなところがあるのです。
※あと、それぞれの国や民族や地域の人々が、そうした物事をいったいどのようなイメージやニュアンスで捉えているかによって、呼び方の雰囲気がかなり変わってくるようです。
そうすると、そうした国や民族や地域のことをあまり知らない人が、そうした人々の所に行くと、たとえ最初は、ほぼ同じような言葉のルーツを持っていたような言葉であったとしても、「あれ、それはいったい何の意味なんだ?」とか、「そんなにたくさん細かく呼び名が決まっているんだ」などというように、どうしてもある程度、そうした国や民族や地域の人々の生活を理解できるようになるまでは、いくら話しても、なかなか言葉の意味がわからないような状況になりがちであったようなのです。
追伸
確かに最近、地面が大きく揺れるようなエネルギーが、何度も来ているようなのですが、今のところ、それほど大きな被害になることなく、普通に推移しているようです。
Cecye(セスィエ)
2016年7月20日 9:03 PM, 現在のアセンションの状況 / 知恵、正しさ / 社会、文化