②たとえ一見、ほぼ同じような物事について話し合っているとしても、実際には、それぞれの人の年齢や経験や社会的な立場の差によって、かなり大きな感じ方や考え方の違いがあるものである
二つめは、ここでは、お金を例にあげて説明してみたいと思うのですが、例えば、同じお金であっても、小さな子供であれば、「ああ、あのピカピカした丸く硬い数字が書いてあるものか」とか、「ああ、あの大人がたくさん持っている、お店で使う長細い紙のことでしょう」となるのでしょうが、それがある程度、大きな子供になってくると、「お友達の◯◯ちゃんと遊んだら、300円使っちゃった」とか、「1万円あれば、あの大好きなゲームやおもちゃが買えるのに・・・」というように、もう少し実際に使っているような感じのお金の感覚になり、さらにもっと大きな大人になると、「一ヶ月働いて、やっと◯◯円稼げたや」とか、「ああ、ここで好きなことをしたいんだけど、会社できっちりした仕事をしていないと家族が困ると大変だからな」というように、もっと社会的というか、現実的な感じでお金を考えるようになるなどというように、要するに同じお金であっても、それぞれの人の年齢や社会経験の違いによって、そうしたお金の感じ方や考え方というのは、かなり大きく変わってくるものなのです。
さらに今度は、それぞれの人の収入や資産の面から考えてみると、例えば、かなり裕福な人のお金の感覚や考え方というのは、普通のサラリーマンのような人とはかなり違ったものになってくるでしょうし、また日々の生活にも事欠くような経済状態の人のお金の感覚や考え方というのも、そうした人々のお金の感覚や考え方とはかなり大きく違ってくるようなので、そうした点から見ると、実は、何となく大勢の人々が、ほぼ無意識のうちに、ほぼ同じような存在であると深く思い込んでいるような「お金」という存在であっても、現実には、それぞれの人の年齢や社会経験の違いや、それから、それぞれの人の収入や資産の違い、つまり非常に裕福な人なのか、それとも平均的な収入や資産の人なのか、さらには日々の生活にも事欠くような貧しい人なのかというような、それぞれの人が現在置かれている収入や資産の違いによっても、現実には、かなり大きな感じ方や考え方の違いがあるものなのです。
さらにもっと社会的に幅を広げて考えてみると、例えば、毎日、自分の国のお金だけでなく、外国のお金との為替(かわせ)取引に関わっているような人から見ると、物に値段がついているだけでなく、国際的に見た場合には、なんと自分の国のお金にも値段がついていて、常にいろいろな原因で値段の上がり下がりを繰り返している金融商品の一種のようにしか見えないかもしれないし、また、それぞれの国の政府の財務省や中央銀行の人々から見ると、お金も、そうした人々がうまく価値をコントロールしながら、工場で生産している紙や金属でできた工業製品の一種のように見えているのかもしれないし、それから、そうした政府の影響すら、ほとんど及ばないような地方の辺境で自給自足して暮らすような人々にとっては、もうお金といっても、ほとんど何の価値も感じられないような、ただの薄い紙切れや丸い金属の塊にしか見えないかもしれないということなのです。
このように私達の生活にとても身近なお金を例にあげても非常によくわかるように私達の社会では、一見、ほぼ同じような物事について話し合っているつもりであっても、実際には、それぞれの人の年齢や社会経験の違いや、それから、それぞれの人が置かれた社会的な立場の違いによって、かなり大きな感じ方や考え方の違いがあるものなので、時々、そうした観点から、それぞれの人の物の見方や考え方について、再度考え直してみることは、とても重要なのではないかと思います。
Cecye(セスィエ)