それから三つめは、これは少し難しい話になるのですが、国の主権という概念には少し難しい要素があって、これはどこの国であってもほとんど同じであると思うのですが、その国の国内の人から見ても、また国外の人から見ても、一見この人が統治権を行使しているように見えるけれども、そうした統治権の元々の根拠はその家系や人物ではなく、例えば、いにしえの神仏の権威に基づいているとか、別の国の政治力や軍事力や経済力に基づいているとか、有力な王族や貴族などの別の人物や集団の政治力に基づいているなどというように、実際には、何らかの神仏の権威や他の人物や集団の手腕や他国の軍事力や政治力や経済力に基づいているにも関わらず、そうしたものの威光やパワーを借りて、まるでその統治者自身の力によって、その国の統治が成り立っているように見せていることがあるということです。
そうすると、ここで難しい問題が発生するのですが、こうした現実の統治力と、他から借りた借り物の統治力があまりにもずれている場合、あるいは、そうした政治的な実態を統治を受けている側の国民があまりにもよく理解していない場合、そうした表向きの建前と実質的な統治力のずれや間違いによって、かなり大きな統治上の失敗が起きることがあるということです。
※そこで近代に入ると、一人一人の政治的、社会的な責任をかなり明確にはっきりさせると共に、そうした責任が追及された際にあまりに過酷な拷問や刑罰が加えられたりすることがないように、より人道的な政治システムに変えるようになってきているようです。
Cecye(セスィエ)