ところが、その後の日本では、国内ではそれなりに産業化や教育の面で成功するし、また隣国のかなりの大国にも次々と戦争で勝利して、当時の日本の防衛に成功するどころか、国際社会でそこそこの地位を得られるような立場に立ってゆくというような具合で、当の明治時代の指導者達にも全く想像できないような奇跡のような出来事が次々と巻き起こり、国の発展と存続が起きてしまったわけです。
ですから、こうした明治維新以降の日本の歴史の営みから推測すると、本当は明治時代の指導者の本音としては、「たとえ大日本帝国憲法をかなりがっちりした形で国の憲法に据えたとしても、そんなものすごい権威なんて多分できないだろうから、その後の国の様子を見て、どこかの段階で少しずつ変えてゆけばよいだろう」とか、「明治初期の日本の様子を見るに、おそらく、これだけかなりきっちりとした愛国教育をやっても、多分、国民の大半はそんなに天皇や政府を強く信頼することはないだろう」などというような感じで、正直なことを言えば、日本の将来をかなり悲観的に予測していたために、かえって「ものすごく偉大な非常に権威のある憲法である」というような誇大宣伝と愛国教育を行いながら制定したのではないかと思われるのです。
ところが、その後の日本では、そうした明治時代の指導者達の予想を遥かに超えた形で、本当にわりと短期間のうちにそれなりの産業の発達や軍事的な勝利のような、まるで奇跡のような国家の発展と存続が次々と成し遂げられてしまったために、そのうち「大日本帝国憲法は、不磨の大典なので、絶対に永久に変えてはいけないのだ」などと本気で言い出すような人々が出てきたり、また、それを口実に当の明治時代の指導者達がいたら、すぐに改革に取り組みそうな国家規模の問題をそのまま放ったらかしにするようになっていったり、さらには、大日本帝国憲法を錦の御旗にして、そうした国家規模の改革を訴えるような人々を次々と弾圧してゆくようになっていったのです。
Cecye(セスィエ)