二つめは、これはあまり考えたことのある人は少ないかもしれないのですが、大日本帝国の場合、明治時代の国是をそのまま発展させてゆくと、富国強兵や殖産興業で国内を発展させつつ、できれば近隣に少しでも欧米と肩を並べるような併合国や植民地を持つような国家戦略を維持してゆこうとするはずなのですが、ところが、ここで問題なのは大日本帝国が成立して、しばらく経った辺りの時代になると、そうした欧米列強の国々があろうことか侵略や植民地の拡大路線ではなく、だんだん国際平和や民族自決や人道主義のような路線に大きく変更し出してきて(第一次世界大戦のもたらした悲惨な結果とその後の国際連盟の設立の影響が大きかったように思われます)、特に昭和の時代になる頃になると、それまでの時代のように海外に積極的に侵略するような軍事活動をすると、なぜか、それまで散々侵略や植民地化をやりたい放題だった欧米の国々から、「それは軍事的な侵略ではないか」とか、「それは、とてもひどい非人道的行為ではないか」などというように、それまでずっと欧米の国々を見習って国家を築いてきた当の大日本帝国の立場からすると、急な国家方針の変更がほぼ不可能なくらいのかなり大きな国際世論の大変化が起きるようになってきてしまったのです。
そうすると当時の大日本帝国の立場としては、それまで数百年続いてきた欧米の軍事立国による植民地支配がその後も数百年は続くかと思って、国家の運営目標を定めたのにそれが大きく外れて、突然軍事立国もダメだし、新たな植民地支配もダメというような、はっきり言って、かなり致命的な国家的な窮地に陥ってしまったわけなのですが、その際にそれまでと同様の軍事立国や植民地争奪を行おうとする人々が、「この際、早めに国是を大変更しましょう」というような改革路線の人々をほぼ一網打尽に叩きつぶすための錦の御旗となったのが、この大日本帝国憲法や、それに連なる天皇制を頂点とする軍国主義体制であったということなのです。
Cecye(セスィエ)