2、今日の日本人の目から見ると、「不磨の大典」と呼ばれた「大日本帝国憲法」の憲法としての仕上がりは、それほど高いものとは言えないようなところがある
第二には、これは非常にめずらしい指摘になると思うのですが、よく教科書やマスコミなどでは、かつての大日本帝国憲法は「不磨の大典」と呼ばれる非常に完成された完全な憲法であったかのような説明を受けることがあるのですが、ところが現在の日本人の視点から見ると、かつての大日本帝国憲法は、それほど完成された完全な憲法とは、ほとんど言いがたいというような事実があります。
これは、おそらく憲法や法律に関わる学者や専門家のような人々から見ると、いくらでも様々な観点から指摘できるような話になると思うのですが、ここでは、そうした中でも非常に重要な点について、幾つかだけ指摘しておきたいと思います。
まず一つめは、大日本帝国憲法を読むと、あちこちでその時々の天皇に非常に大きな政治的、法律的、軍事的な権限を集中させていたことがよくわかるのですが、ところが、それでは、そうした天皇は政治や軍事や法律に対して、いったい何にどれだけ関わるのか、ということがほぼ全く説明されていないので、はっきり言うと、何か政治的、軍事的、法律的に問題が起きるたびに、いったいどこの誰に責任があるのか、あるいは、何をどう改善してゆけばいいのかということが、どこの誰にもよくわからなくなってしまうような非常に大きな問題点があったということです。
※昔の大日本帝国憲法では、「天皇は神聖にして犯すべからず」と宣言した上で、「天皇は国家元首で統治権がある」と述べているので、理屈的には、この段階で、たとえ政治にいかなる不満や問題があっとしても、天皇に絡んだ不満や問題に関しては、誰も責任を追求できなくなるようなシステムになっています。
※昔の大日本帝国憲法には、現在の日本の議員内閣制とは全く違って、「国務大臣は天皇に助言し、責任を負う」としか書かれていません。そうすると、実際には、それぞれの担当の大臣が行政を行っているにも関わらず、法律的には、まるで天皇がすべての行政を取り仕切っているような扱いになってしまうので、何か問題が起きても政治の責任を非常に追求しづらくなると共に、この制度だと首相がいても、天皇が首相に絶対の信任を置いていない場合には、それぞれの大臣が天皇の権限を使って、いくらでも好きなように政治を牛耳ることができるようになっています。ただし、こうしたケースの場合、政治的には、その時々の天皇は首相ではなく、その大臣を実質的な首相のような役割として登用した、というように理解することもできます。
※昔の大日本帝国憲法では、「貴族院と衆議院の帝国議会を開く」とは述べられているのですが、議員の代表が内閣を構成して政治を行うとは一言も述べられていないで、現在のような議員内閣制の政治制度ではなく、その時々の天皇の意向に最も近い政治集団が、議会や民衆を適当に手なづけつつ政治を行うような、一見民主的だが、実態は独裁政治、もしくは官僚政治に近い政治システムになっていたように思われます。
Cecye(セスィエ)