それでは、こうした場合、いったい、どのようなまとまりを目指してゆけばよいのか、というと、これは、とても難しいところもあるのですが、大まかに言うと、次のような二つのことが言えます。
一つめは、多くの人々を、ある程度の大きさの規模の集団として、まとめようとする場合には、上に立つ指導者の人々は、一方的にあまりにも強い規律や強制力を行使しすぎるような体制を築くのではなく、基本的には、それぞれの人が、「いくら何でも、これは他の人にとって、迷惑だろう」、と思われるようなことは、できるだけお互いに自粛してもらえるような社会的な合意やモラルや教育体制を整えてゆくことが、とても大切になります。
二つめは、これは少し難しくなってくるのですが、その時々の国や社会の状態を見ながら、「こうした行為は、どう考えても悪いことなので、きっちり罰するしかないと思われるが、そうしたものに該当しない、それ以外の行為は政府としても、また、それぞれの個人としても不干渉にするから、基本的に自分の責任の負える範囲内であれば、自由にやってもよい」、などというように、あまり古い時代の伝統や道徳や価値観に頼りすぎることなく、その時々の国や地域の社会の情勢を見ながら、はっきり言うと、昔からの道徳や建前はいったん置いておいて、基本的には、他の人々や生き物に対して(あと、地球環境という要素もありますが・・・)、危害を加えたり、迷惑をかけたりしない範囲内で、しかも、その人自身にとっても、何らの問題も間違いも被害が生じない範囲内であるなら、許容範囲とする、などというように、常に常に新しいモラルのあり方を模索し続けるような態度が、とても大切になります。
Cecye(セスィエ)
2015年1月9日 9:03 PM, 政治 / 現在のアセンションの状況 / 社会、文化