③人間は、非常に知性の発達した生き物であるために、自然界の生き物なら単純に不幸で辛いと感じるようなことであっても、至上の幸福のように錯覚して、「不幸的幸福」を追求してしまうことがあるので注意が必要である
第三には、そうすると、ここで不思議なことが起きてくるのですが、実は人間という生き物は、自然界の他の生き物達と違って非常に知性が発達した生き物であるために、次の二つのような非常に不思議な「不幸的幸福」というものが実現してしまうことがあります。
まず一つめは、これは単純な話なのですが、先ほどの相対的幸福感の理屈によると、例えば、昔はものすごく美味しいものを食べることが幸せだったのに、その後、何らかの理由で、ある程度美味しいものを食べることが幸せとなり、さらにその後、何らかの理由で、ちょっと美味しいものを食べることが幸せとなり、さらにその後、何らかの理由で、美味しいか、まずいか以前に「何とか食べれるだけでも幸せ」と感じるようになり、さらにその後、何らかの理由で、いつも腹ぺこ状態になってしまったので、とにかく、ほんの少しでも食べ物にありつければ幸せと感じるようになったなどというような、かなりとんでもないマイナスの連鎖が続いていったとします。
この場合、いったいどうなるのかというと、このような形で相対的に昔は10段階評価で10を幸せと感じたのに、それがだんだん、9、8、7、6、5・・・、などというように幸福を感じるレベルがどんどん下がっていった場合、おそらく、どこかの段階で客観的にそこそこ豊かな人間から見たら、「これは幸福というよりも、どう見ても不幸としか言いようがないな」と思われるような状況でも、その当の本人からすれば、「自分は、これでこの上なく満足だ。幸福だ」などと言い出すような、つまり端から見るとその人は完全に不幸に見えるのに、当の本人から見ると、この上なく幸せというような少し異常な状態に陥ることがあるということです。
それから、これとほぼ同じような錯覚的幸福の感覚は、現在の自分自身の状況と、それよりもさらに厳しく辛い他の人々の状況との比較でも起きます。
二つめは、これもかなり不思議な話なのですが、このような形で何らかの理由で幸福感と不幸感、あるいは、気持ちよさと苦痛の感覚が異常にすり替わっていった場合、要するに巷のSM趣味のように、どこかの段階で周りの人々から見ると明らかに苦痛にのたうち回るような不幸極まりない状況であるにも関わらず、その当の本人からすると、まるで幸福の絶頂であるかのように感じられるというような、いわゆる倒錯的な疑似幸福体験のようなものがいくらでも成立してくるようなところがあるのです。
つまり人間というのは、他の生き物と違って非常に知性の発達した生き物であるために、他の生き物であれば、単純に不幸、単純に辛くて苦痛と感じるような状況であっても、何らかの事情により、それをあたかも至上の幸福や快楽のように錯覚して、何年でも何十年でもそのまま平気で生きていってしまうようなところがあるのです。
こうした状況を客観的に見た場合、どう考えてみても不幸なのに幸福と考えてみたり、幸福なのに不幸と考えてしまうような状況から、私は「不幸的幸福」という少し変わったネーミングを試みたいと思うのですが、どうも人間は、自然界の他の生き物と比べると非常に知性の発達した生き物であるために、こうした本当の幸福とは明らかに性質の違ったものを、あたかも本当の幸福であるかのように勘違いしてしまうようなところがあるようなのです。
Cecye(セスィエ)