3、霊的には、名前と、本人、もしくは、霊的存在が異なっているケースがあるので、注意が必要である
次には、名前について、考えてみたいと思うのですが、実は、これも、前に少し述べた言霊の問題とほとんど同じように、そうした名前独自のイメージによって、若干、そうした霊的存在とは、少し違った世界に通じてしまうことがある、というような、ちょっとややこしい問題があるのです。
単純に名前独自のイメージと言っても、少し分かりづらいと思われるので、もう少し詳しく述べると、例えば、同じ人、あるいは、同じ霊的存在の名前であったとしても、発音の仕方(強く言うか、弱く言うか、日本語風に言うか、英語風に言うか、など)や、文字のイメージ(漢字や仮名やローマ字など)や、それから、何らかのシンボルがある場合には、そうしたシンボルの色や形や、それに、常に付随する絵や像のイメージや、そうした名前に付随する尊称や敬称のイメージや先入観(○○神や○○仏や○○主や、○○王や○○帝(天皇)や○○長や、○○様や○○君など)や、それから、そうした名前が、どのような時や場所に使われるかによって、はっきり言って、同じ名前であっても、かなりイメージが異なってきます。
それでは、そうした名前のイメージだけ、実際に、そうした人、もしくは、霊的存在には、たくさんの実態があるのか、というと、たいてい、そんなことは全くなくて、例えば、釈迦やイエスやムハンマドなら、元々のモデルとなった人物の個性や姿形は、現実には、一つしかなかったわけなので、はっきり言うと、そうした元々の人物の個性や姿形以外のものは、すべて偽物になってしまうわけです。
ところが、前にも述べたように、長い宗教の歴史では、たいてい、当初のイメージとは、かなりかけ離れたイメージや説話が付随してゆくものなので、こうした問題は、霊的には、かなり大きなものになるのですが、要は、ここで、大切なのは、そうした名前のイメージが、どうであれ、本当の現実としては、その名前が指し示す実際の人物は、実際には、ただ一人しかない、ということを理解しておくことが、とても大切なのではないか、ということなのです。
ですから、名前のイメージに関しても、例えば、私には、Cecyeというスピリチュアルな名前以外に、普通の市民としての名前があるのですが、先ほど述べたように、要は、その名前が、いかなるイメージを持っていたとしても、そうした名前自身よりも、そうした名前が指している当の本人、もしくは、当の霊的存在の方に、自分の意識を向けるような訓練をしておかないと、いつの間にか、当の本人や霊的存在を全く無視した、ある種の偶像崇拝のような、名前信仰のような、妙な感覚に陥ることがあるので、注意が必要なのではないか、と感じております。
つまり、まだ、現在の世界でも、名前の響きやイメージが、ある種の偶像になってしまい、当の本人、もしくは、当の霊的存在を全く無視した、ある種の偶像崇拝のような霊的状況になってしまうことがあるので、注意が必要なのではないか、ということです。
Cecye(セスィエ)
2013年4月9日 9:02 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 宗教、道徳