よく世間では、「知恵」と「正しさ」というのは、一セットで考えられることが多いようなので、今回から「知恵」と「正しさ」について、考えてみたいと思います。
まず最初に言いたいことは、現代の地球の文化だと、まるで何に関しても、「絶対的な正しさ」があるかのような感覚がしてくることが多いのですが、これに関しては、確かにそう言えるようなところもあるが、本当は、そうとも言えないようなところもあるなどというように、ちょっと微妙な、ややこしい問題が絡んでいるということです。
※これは、単純な社会的な決まり事や、社会常識的な正しさ、つまり、「1+1=2」とか、「『愛』は、『あい』と読みます」というような、単純に正しいか、間違っているか、ということが分かるような「正しさ」についての話ではなく、もう少し複雑でややこしい、現実社会の「正しさ」についての話になります。
これに関しては、大きく五つのことが言えます。
1、多くの人々は、宗教や学校教育の刷り込みで、何となく、何にでも「絶対的な正しさ」があるかのような錯覚をしがちだが、現実の世の中では、その時、その場所、その人、それから、その条件によって、「正しいか、間違っているか」ということは、かなり相対的に変わってしまうようなところがある
まず第一には、前にも「絶対的な真理というものはなくて、実際には、真理というのは、その時や場所や人や条件によって、変わってしまうようなところがある」というような話を述べたことがあるのですが、それと同じように「正しさ」に関しても、よく宗教や道徳で言われるような「絶対的な正しさ」というものは、現実には、世の中にはなくて、そうではなく、実際には、「その時々の状況によって、正しいと言えることもあれば、正しいと言えないこともある」などというような状況になることの方が、遥かに多いということです。
ですから実は、世の中には、「絶対的な正しさ」と言えるようなものは、ほとんどなくて、そうではなく、実際には、「この場合には、正しいと言えるが、この場合には、正しくない」とか、「この場合には、間違っていると言えるが、この場合には、そうは言えない」などというように、基本的には、たとえ同じようなものであっても、その時、その場所、その人、それから、その条件によって、「正しいと言えることもあれば、間違っていると言えることもある」とか、「間違っていると言えることもあれば、正しいと言えることもある」などというように結構、相対的なものであることが多いということです。
Cecye(セスィエ)