3、長い間、一部の裕福な人々を除き、多くの貧しい人々は、日々、生きてゆくだけで、精一杯だったので、盛大な葬式や供養を行ったり、立派な墓を作るようなことは、全く出来なかったのだが、近現代に入り、多くの人々が、やっと、ある程度、豊かな生活を送れるようになると、その精神的な反動で、あちこちで、盛大な葬式や供養を行ったり、きれいな立派な墓を建てるようになった
それでは、現代日本のように、どの人も、どの人も、誰かが亡くなるたびに、片っ端から、できるだけ立派なお墓を建てようとしてゆくような状況に関して、いったい、どのようなことが言えるのか、というと、私が推測するには、おそらく、次のようなことになります。
まず、これは、現代人の感覚ではなく、一昔前の多くの人々の感覚に合わせてみないと、なかなか、よく分かりづらい感覚になってきてしまうのですが、特に日本のように、戦後、急速に、何もかもが豊かになって、多くの人々が、そこそこ、リッチな生活ができるようになったような国というのは、それは、言葉を変えると、ほんの一昔前までは、ほぼ8〜9割の人々は、単に貧しいだけでなく、生活も非常に不安定で、毎日、何とか生きてゆくことだけで、精一杯の時代が、非常に長く続いてきた、ということなのですが、そうした状況では、とにかく、今生きている人間のために、何かすることが、第一優先になってしまうので、もし、誰かが、大怪我をしたり、大病にかかった場合は、もうすぐに死を覚悟しなくてはならなかったし、それから、もし、その後、その人が亡くなってしまった場合には、大金と時間をかけて、手厚く葬るなんて、ほとんど出来ずに、たいていの人々の場合には、家族や親族達の心配や悲しみは、ともかくとして、この世的には、「まあ、最低限のことをしたら、お金も時間もかかって、とても大変なので、適当に、大勢の死者が埋めてある所に、一緒に埋葬しておけばいいか」、とか、「葬式をして、火葬にしたら、もう後は、骨しか残らないから、近くの簡単な親族共同墓地のような所に、一緒に入れておけばいいか」、というような具合に、はっきり言うと、どの人も、どの家も、かなりお粗末、というか、かなり適当な、かなり心残りの死者の弔(とむら)いしかできなかったような時代が、非常に長かったのです。
ですから、多くの人々の潜在願望としては、「我が家も、お金があったら、武士やお金持ちのように、きれいな立派な石造りのお墓に葬ってみたいな」、とか、「いつも適当な供養ばっかりだったから、自分の家も、一度でいいから、武士や貴族みたいに、盛大な葬式をやって、それから、何回も何回も、立派な法事をやって、ものすごく丁重に、亡くなった人を葬ってみたいな」、とか、「無縁仏の墓地みたいな所じゃなくて、ちゃんと名前や戒名が書いてあって、しっかり管理されてる、お墓を作ってみたいな」、というような気持ちが、何百年、何千年と、溜まりに溜まっているようなところがあったために、近現代に入り、多くの人々が、そこそこ、物質的に豊かになってくると、やがて、ここぞとばかりに、それまで自分達としては、全くやったことがなかったような、言ってみれば、生きている人間には、ほぼ不必要な超贅沢、つまり、もうすでに亡くなってしまった人々のために、「きれいな立派な墓を設ける」、とか、 「ものすごくお金のかかるような、盛大な葬式を行う」、とか、「何度も何度も、丁重に法事を行う」、というようなことを、あちこちで、たくさん、やり出すようになっていったようなところがあるのです。
日本の場合、それは、明治以降、普通の庶民が、だんだん、裕福になってゆく時代と、それから、特に戦後、ほぼすべての日本人が、かなり物質的に豊かな生活ができるようになった時代に起きた、ということなのですが(それ以前の時代の人々のお墓は、いったい、どこにあるのか、ということすら、全然、分からないようなものが、とても多いです)、そう考えてみると、ちょうど今頃の時期というのは、そうした感覚のピークを過ぎた辺りの時代になっているので、最近は、多くの人々、特に若い人の感覚としては、だんだん、そうした、お墓や葬式や供養というものに、あまり強い関心を示さなってゆきつつある、というような、ちょうど時代の曲がり角に当たるような状況になってきているのではないか、ということなのです。
追伸
今日は、後で、もう一つ載ります。
Cecye(セスィエ)
2012年8月4日 9:04 PM, Q&A / スピリチュアリズム、霊界