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現在の趨勢では、近い将来、これまでの神仏の役割は、現在、発達中のコンピューターやロボットに、だんだん取って代わられる可能性が高くなってきている Part 5

⑥神仏の法(教え)を、何でもその通りに守れば、この世の幸福や、来世の幸福が保証される、というような「神法絶対主義教」や「仏法絶対従順教」のような宗教形態

 それから、第六には、これも、非常に問題が多いのですが、「神仏の教えは、絶対なので、とにかく、何でも、その通りにやればよい」、とか、「とにかく、神仏の教えを、誠心誠意、守るから、自分達に、幸福をもたらし、来世も、天国に連れていってください」、というような、いわゆる、「神法絶対主義教」、もしくは、「仏法絶対従順教」のような宗教形態があるのですが、これに関しては、確かに半分くらいは良いと言えるけれども、もう半分くらいは、全然、ダメなのではないか、というようなことが言えます。

 良い点は、その教えが、基本的に、神仏の考えに、かなり忠実な場合には、確かに、この世においても、精神的な平安が得られる上に、来世においても、かなりの確率で、わりとストレートに、「天国」と言われる世界に行けることなのですが、ただ、問題点としては、これは、前にも、かなり細かく述べたのですが、時代が過ぎると、多くの人々の感覚や常識と、教えの間に、あまりにも大きな違いができてしまうために、現実問題として、いろいろな場面において、さまざまな衝突や軋轢(あつれき)を巻き起こしやすいことです。

 それと、それ以上に、大変、問題なのは、こうした神法(仏法)主義を奉じていると、いつの間にか、そうした神法によって、人間の営みばかりか、神仏の存在のあり方や、その定義まで、人間の側で、非常に強い信念をもって、一方的に断定しようとし始めることです。

 ですから、こうした神法主義に関しては、確かに、そうした神仏の教えは、なるべく尊重すべきであるのですが、できれば、もっと自然な形で、祈りや瞑想の中で、神仏の心を、直接、感じとったり、また、多くの人々の素朴な本音の感覚に基づきながら、たとえ、神仏の定めた神法のようなものであっても、その時々の状況に応じて、それほど重要でない部分は、それなりに柔軟に変更を加えても、ある程度は、良しとする、というようなスタンスは、しっかり持つべきなのではないか、というように、私は感じております。

 

⑦未来の運命や、分からないことを、何でも神仏にお伺いを立ててゆくような、「神仏の意思、伺い教」や「占い教」のような宗教形態

 そして、第七には、「よく分からないことは、何でも神様にお伺いを立ててみよう」、とか、「未来の運命を知りたいが、よく分からないので、手っ取り早く教えてほしい」、というような、いわゆる、「神仏の意思、伺(うかが)い教」や「占い教」、のような宗教形態になるのですが、この場合には、正直言って、最近、流行りのチャネリングのようなもので、わりと正しい、しっかりしたものであれば、それほど問題ないのでしょうが、そうではなく、そうした宗教の信者に対して、「いろいろ教えてもらっても、最終的には、自分の意思と責任で、しっかり決めなくてはならないのだ」、というような主体性の部分を放棄させたり、あるいは、あまりにも、一方的に、他人の人生を、あれこれ決めつけてきたりするものに関しては、かなり問題が多いのではないか、ということになります。

 ただ、私自身の体験からも、確かに、この世的な知識や経験だけで、人生の荒波を乗り切ってゆくのには、かなり困難を感じることも事実なので、私の考えとしては、この世的な知識や経験も大切にしつつ、霊的な知恵やインスピレーションも重んじながら、基本的には、自分自身が、主体的に、いろいろな物事を責任をもって、しっかりと決めてゆきながら、できるだけ、自分自身も幸福に、また、多くの他の人々も幸福にしてゆけるような人生を歩んでゆくのが、大切なのではないか、というように、率直に感じております。

 このように、一部の偉い人々の利益や、多くの人々の願いやニーズに基づいて、運営されている宗教における、神仏の個性や能力や役割というのは、だいたい、以上のような七つの特徴を持つような方向に行きやすい、ということが言えます。

 ただ、ここまでの説明からも、よく分かると思うのですが、たいていの宗教では、時代を隔てるにつれて、その宗教の運営者や為政者の都合や、あるいは、多くの人々の願いやニーズによって、ともすれば、元々、その宗教で祭られている神仏の意思や能力や役割を遥かに越えるような、はっきり言うと、得体の知れない、訳の分からない、どう考えても、ほぼ実現不可能な、とんでもない事態になりがちであったにも関わらず、残念ながら、そうしたことに関しては、「死人に口なし」、「神仏にも口なし」、とばかりに、ほとんど誰からも指摘されたことも、問題視されたことも、あまりなかった、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年7月29日 9:07 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 宗教、道徳



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