未来予測は、「それが当たったかどうか」ということよりも、それによって、「個人や全体の状況が良くなったかどうか」ということで、その良し悪しを決めた方が良いのではないか
これは最初に、このブログで未来予測について述べた時に少し長々と述べたことなのですが、要するに未来予測には、多くの人々の個々の自由性の問題が深く絡んでいるので、原則、「これが完全に決まりきった未来のシナリオである」というようなものは全く存在していないのです。
理由は二つあるのですが、まず第一には、もし、すべてが完全に確定したシナリオの通りに時間が流れているとすると、みなさんの自由性は全くないことになってしまうのですが、現実の世の中の様子を見る限り、そのように、まるで映画の上映のような完全に決まりきった時間の進行方式は、この宇宙では全く取られていないのではないかということです。
第二の理由は、前にも何度か述べたようにそうした世界の運営の仕組みというのは、それぞれの個人の自由性をなるべく最大限に重んじようとする、この宇宙の創造主の意思に反することになってしまうということです。
つまり何らかの未来の予測がされると、それに基づいて、多くの人々が、いろいろな理由で、いろいろなことをやったり、やらなかったりするようなことが起きてゆくのですが、そうすると、その後の時間の流れの中の因果関係というのは、そうした未来予測の影響力が強ければ強いほど、いろいろ大きく変化していってしまうようなところがあるのです。
ですから、そうした未来の予測というのは、どちらかと言うと、それが当たるか当たらないか、ということよりも、そうした未来予測の結果、そうした未来予測をされた個人や全体が、その後、良くなったのか、それとも、かえって悪くなったのかということの方を、その良し悪しの基準とするべきであるようなところがあるのです。
ですから当然のことですが、もし、ある程度外れたり、時期のずれる可能性の高い内容であったとしても、それを言うことによって、個人や全体の状況が、かえって良くなる方向に進む可能性が高い場合には、言うべきでしょうし、もし、ピッタリと当たる未来が分かっていたとしても、それを言うことによって、かえって個人や全体の状況が悪くなる方向に進む可能性が高い場合には、普通控えた方がよいということになるのではないでしょうか。
Cecye(セスィエ)
2012年7月14日 9:02 PM, Q&A / 予知、予言、未来予測 / 時間と空間の秘密