⑧霊的宇宙的に見た場合には、ある一定の許容範囲内であるならば、ある程度のバラエティーに富んだ、信仰対象や信仰方法を選べるようなところがあるのだが、ただし、そうした一定の許容範囲を越えるものに関しては、やはり、間違いとされる、というような、一定の許容制限を伴う、多元論的な信仰観が、より正しいと言えるようなところがある
第八には、これは、宗教においては、最も大切と言われている「信仰」についての話になってくるのですが、これは、知らない人も多いと思われるので、少しだけ、簡単に、信仰とは、何なのか、ということについて、説明してから、本題に入りたいと思います。
1、宗教における信仰のスタイルに関する、大まかな分類について
まず最初に、宗教における、信仰とは、何なのか、ということを、簡単に言うと、実は、多くの人々は、「信仰には、ただ一つの意味しかない」、と深く信じ込んでいることが多いにも関わらず、実際には、この「信仰」という言葉も、前にあげた「愛」と同じく、結構、宗教により、また、時代や地域により、それから、個人により、大きな意味の差のある言葉の一つなのではないか、ということなのです。
それでは、実際に、信仰とは、いったい、何なのか、というと、おそらく、現在の地球では、次のような四つぐらいのスタイルの信仰が、非常に多いのではないか、と思われます(詳しくは、別のページを参考にしてください)。
①無知や怖れに基づく信仰
まず第一には、これは、残念ながら、よく「迷信」などと呼ばれていて、主として、無知や怖れに基づくものなのではないか、と思われる内容になるのですが、要するに、「これをやらないと、怖い祟りがあるから」、とか、「前に、これをやらなかった人が、とんでもない祟りで、ひどい目に遭ったから」、とか、「生きてる生活だけでも苦しいのに、その上、死んで、地獄に落ちるのは、まっぴらご免だから」、とか、「本当は、別に心から信じているわけじゃないんだけど、信じる振りをしていないと、村人から何をされるか分からないから」、などというような理由で、本当は、理知的に理解して、信じている、というよりかは、どちらかと言うと、「○○しないと、何が起きるか分からなくて、とても怖いので、とりあえず、信じることにしよう」、というような、いわゆる、無知や恐怖心に基づく信仰というものがあります。
②強い信念の持続を伴う信仰
第二には、これは、今のものよりは良いのですが、何らかの宗教の、いろいろな教えを聞いて、知識的には、ある程度、理解できたのだが、要するに、その結果、「神仏への信仰というのは、何も疑わず、何も考えずに、ひたすら、強い思いを寄せて、神仏のことを信じ抜いていればいいらしい」、ということが分かったので、「自分は、ただひたすら、神仏のことを信じて、あるいは、天国や極楽浄土での来世の生活を信じて、強く思いを向け続ける」、とか、「強く念仏を唱え続ける」、とか、「強くイメージし続ける」、とか、「何らかの宗教的な動作をし続ける」、などというようなタイプの信仰、つまり、強い信念の持続による信仰というものも、今日の地球では、非常に多いのですが、この場合は、いったん、強く信じて、受け入れた信仰以外のものに対して、ほぼ反射的に拒否反応を示したくなる、というか、ほぼ反射的に、否定的な見解を示さないと、気が済まなくなるようなところが、少し問題なのではないか、ということになります。
③わりと冷静な、知性的な立場に基づく信仰
第三には、これは、もっと知性的な立場に基づく信仰になるのですが、要するに、たくさんの宗教上の知恵のようなものを学んでいるので、「この場合は、こうであるが、この場合は、こうだな・・・」、などという具合に、もう少し理性的な形で、いろいろな物事に対して、冷静に、寛容に接することができるような立場の信仰であるのですが、この場合の問題点は、これは、人類の知性の発達における根本的な問題であるとしか、全く言いようがないのですが、多少、幸福感に欠ける、というか、なぜか、現在の人類の知性の発達というのは、理性の発達ばかりに重点が行き過ぎていて、人間の本能的な快感や幸福というものを、一律に否定してゆくようなところがあるので、その結果、こうした知的な発達を遂げた、知性的な信仰を持っているような人々というのは、先ほどのような、単純至極な、「信じること第一信仰」の人々と比べると、肉体的、精神的幸福感の観点から見ると、やや若干、満ち足りないようなところがあるように見受けられます。
④適度に、神仏のような光の存在達は信じるけれども、人間的な成長や、自分や他の人々や生き物達の幸福も十分に尊重するような、幸福至上主義的な信仰のスタイル
それから、第四には、これは、現在、スピリチュアルな分野で、だんだん一定の立場を得つつあるような、新たな信仰像になってくるのですが、要するに、先ほどのような、信じる一辺倒の信仰ではなく、また、知性的な立場に基づく信仰でもなく、その両者の良いとこ取りをしたような、新たな信仰のスタイル、つまり、適度に、神仏のような、光の存在達を信じるようなスタイルはとるけれども、だけど、そうした神仏に、あまり、おんぶにだっこで頼りきるような立場はとらずに、自分自身の知性や理性や感性や悟性の発達も大切にしつつ、その上で、自分自身の幸福や、また、周りの人々や生き物達の幸福を、大切に味わってゆこう、というような、言ってみれば、神仏と、自分と、他の人々や生き物達の三者の幸福を、うまくバランスをとりながら、最大の幸福を実現してゆこう、というような、良い意味での、幸福至上主義的な新たな信仰像というものが、現在、台頭してきつつあるのですが、これに関しては、次のような三つのことが言えます。
まず第一には、こうした考え方というのは、古代や中世のような神仏至上主義でもなく、また、近現代に多く見られたような神仏排他主義でもない、神仏と人間の両者を、うまくバランスよく見てゆこうとするような点において、たいへん、バランスの取れた考え方なのではないか、ということです。
第二には、昔から多くの人々は、宗教や学問を深める中で、いつしか、自分自身の心を見失い、まるで知識そのものが、神仏であるかのように感じて、素直な幸福感というものをなくしてしまうことが多かったので、その点、こうした知性や理性や感性や悟性といった、人間的な成長は求めるけれども、だからと言って、自分自身の幸福や、他の人々や生き物達の幸福は軽んじない、というような考え方は、人間的な成長と、人間的な幸福の両者を、バランスよく認めるような点において、非常に素晴らしいところがある、ということです。
第三には、これは、今度は、問題点になってしまうのですが、そうすると、かつて、人類が、何度も陥った問題点、つまり、こうした物の見方をしていると、いつの間にか、人間中心の物の見方になってゆくことが多いので、そうした中で、どこかで、本当の創造主の考え方から、あまりにも離れてしまった場合には、突然、政治や社会の大混乱や、地震や火山の噴火や異常気象のような天変地異によって、こっぴどい手痛い目に遭うような状況になることは、やはり避けられないようなところがあるのではないか、ということです。
このように、昨今、だんだん主流になりつつある、スピリチュアルな、わりと自然な人間的な幸福を求めるような信仰観があるのですが、これには、多少、問題点があるのも事実である、ということです。
Cecye(セスィエ)
2012年6月25日 9:03 PM, おすすめ記事 / スピリチュアリズム、霊界 / 中国思想 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 知恵、正しさ