③多くの言葉の語源を調べると、長い年月の間に、その言葉が使われ出した頃の最初の意味とは、全く違う意味になってしまった言葉や、さらには、元々の意味とは、全く正反対の意味になってしまった言葉が、たくさんあることが分かる
第三には、これは、さらに、もっと不思議な話になってくるのですが、実は、現在、多くの人々が、日常的に使っている、こうした宗教や道徳で、非常に大事とされているような言葉の意味には、元々、そうした言葉が使われ始めた頃とは、はっきり言うと、もう意味が変わりすぎて、全く正反対の意味になってしまっているようなものもある、ということなのです。
代表的なものとしては、分かりやすいものとしては、「幸せ」を表す漢字の「幸」などがあげられるのではないか、と思われるのですが、正直言って、私は、こうした漢字の語源の説明に関しては、それほどあまり信頼していないようなところがあるのですが(漢和辞典ごとに、内容が違うので、そもそも、漢字の語源なんて、推測の寄せ集め程度のものだったと思われるのですが、第一、そんな何千年も前のこと、いったい、誰が、どうやって、調べられるのでしょうか?)、要するに、昔々の中国では、多分、よほど戦争が多かったか、あるいは、警察や税金取りが厳しかったかで、多くの人々にとっては、それほど罪の意識なんて、全然、感じないような状況なのに、いろいろな理由で捕らえられてしまい、非常に重い重罰を課せられるところを、「いや、今のところ、まだ、手錠で捕まっているだけなので、とてもラッキーだ」、というような状況を、どうも、素晴らしい「幸福」であると考えたらしい、ということなのですが(昔の中国や日本の刑罰は、現代人から見ると、想像を絶して、とてつもなく厳しいものが多かったようです)、これは、現代の感覚で言うと、軍事独裁政権下の、恐怖政治そのものの状況下において、毎日のように、無実の罪で、大勢、捕まったり、拷問されたり、殺されたりしている中で、「自分は、まだ、何とか、拘束され、監禁される程度で済んでいるので、ものすごくラッキーだった」、などと言っているような意味になるので、これは、現代の感覚で言うと、はっきり言って、物質的にも、精神的にも、不幸そのものの状況なのではないか、ということになります(こんな漢字の語源、本当に信じられますか?)。
それ以外にも、日本語だと、ちょっと、ややこしいものに、おおやけの「公」という漢字があるのですが、これも、特に戦前、戦中まで、「たくさんの人々のため」、というような意味と、それから、「天皇」や「貴族(江戸時代までは、武士も)」(○○公みたいな・・・)のような意味の両方があって、私は、かなり混乱した言葉の一つだったのではないか、と考えているのですが(英語だと、王室の「Royal」と、公共の「Public」は、はっきり分けられています。理由は、単純で、時々、真っ正面から利害が対立することがあるからです)、それが、戦後になると、天皇の人間宣言などの結果、「公」と言っても、実質的に「天皇」の意味は、ほとんどなくなり、「多くの人々のため」(Public)の意味だけが使われるようになったのですが、これも、現代的に見ると、意味が、ほとんど正反対になった言葉の一つになります。
ですから、これは、いろいろな言葉の語源を調べると、非常によく分かるのですが、これらの例とほぼ同じような形で、たいていの言葉は、そうした言葉が成立した頃の、元々の意味と、その後の意味が、かなり大きく変化してしまっているものが、非常に多くて、そして、なかには、そうした言葉の意味が、ほぼ正反対になってしまったものも、結構、数多くある、ということなのです。
※名前に、「幸」の字がついていても、たいてい、親は、現代日本語の言葉の響きや文字の意味で、名前をつけていることが多いので、私は、それほど気にする必要はないと思います。
Cecye(セスィエ)