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「陰陽説」について Part 26

②「真理」や「愛」といった、宗教や道徳において、最も大切にされているような、非常に重要な言葉の意味であっても、実際には、時代ごと、また、地域ごとに、かなり大きく変化してしまうようなところがある

 第二には、実は、こうした目で見てみると、多くの人々が、宗教や道徳において、「絶対に、これだけは、譲れない」、とか、「絶対に、これだけは、永遠の真理なのだ」、などと考えていた内容というのも、よくよく調べてみると、たとえ、「真理」や「愛」というような、非常に大切な言葉の意味であったとしても、時代ごと、また、地域ごとに、結構、大きく、その主だった意味が変わっていってしまうようなところがあった、ということなのです。

 代表的なものとしては、例えば、「愛」という言葉について、考えてみたいと思うのですが、おそらく、キリスト教発祥以前の時代の、「愛」という言葉の意味は、単に、「好き」、とか、「愛している」、とか、また、時には、セックスの意味も含んだニュアンスのある、「非常に深く愛している」、というような意味だけだったのではないか、と思われるのですが、そこに、キリスト教が登場すると、そうした「愛」の意味の中に、「神自身が、人類への愛そのものである」、とか、「たとえ、自分を犠牲にしてでも、神、あるいは、誰かのために、身を投げ打って、行動すべきである」、とか、「とにかく、与えきりの愛を実践しなくてはならない」、というような、かなり宗教がかった意味に変化し、それから、これが、近現代に入ると、再び、「愛」というと、「誰かのことが、大好き」、とか、セックスのニュアンスも含んだ、「愛している」、というような、いわゆる、世俗的な、かなり恋愛色の強い意味とか、あるいは、「他の人を愛することと同じように、自分自身についても、深く愛し、癒してゆくことが、とても大切なのです」、とか、さらには、もっと「人類愛」的な意味に昇華されて、「自分のことだけでなく、できるだけ、多くの人々や生き物達の幸せのために、何か、できることをしてゆこう」、とか、あるいは、「もう狭い国や民族なんて垣根は越えて、人類全体や、地球そのものを愛してゆこう」、というようなスタンスに変わってきたのではないか、と思われるのですが、こうしたことからも、よく分かるように、実は、多くの人々が、何気なく、日常的に使っているような、「真理」、とか、「愛」、とか、「知恵」、とか、「信仰」、とか、「正義」、とか、「勇気」、というような、宗教や道徳において、非常に大切とされているような言葉であっても、時代と共に、また、地域の特色によって、そうした言葉の意味というのは、結構、大きく変わっていってしまうようなところがある、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年6月22日 9:03 PM, 中国思想 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 政治 / 教育 / 知恵、正しさ / 社会、文化



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