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「陰陽説」について Part 14

⑦「陰陽」を含めて、世の中のほとんどのものは、「いったい、何を基準や尺度にするのか」、ということによって、どうにでも分別できるようなところがあるので、何も、何でも、きっちりと二つの対極的な存在に分けるようなことはせずに、もっとたくさんの多様性のあり方や、幅広い物の見方を、素直に認めた方が、世の中の現実に、より近く、また、より寛容で幸福な生き方ができるようになるのではないか

 第七には、これは、ちょうど、今述べている「陰陽」についても、ほとんど同じようなことが言えるのですが、例えば、温度という尺度をとれば、人間にとって、高い、適温、低い、とか、また、色の中でも、明度という尺度をとれば、大まかに、白から、灰色、黒、とか、あるいは、色の中でも、色相という尺度をとれば、赤から、オレンジ、黄色、緑、青、藍(あい)、紫、などというような、さまざまな色のバリエーションがあるように、実は、この世界における、ほぼすべての物事というのは、何らかの基準や尺度を用意した場合には、ある一定の単位で計ることができるようなところがあるのです。

 そうすると、ここから先が問題になるのですが、はっきり言うと、こうした考え方で、いろいろな物事を見た場合、ほぼすべての物事というのは、別に、それだけでは、良いとも、悪いとも言えないような価値中立のものが、ほとんどである、ということになるのですが、ところが、「お店にある物を、サービスとして、受け取るなら、全く何の罪にもならないが、それを、お店の人に、一言も聞かずに、黙って、持ち帰った場合には、盗みとされる」、とか、「熱い紅茶は、とてもおいしいのだが、それをこぼせば、途端に、体にとって、危険な熱湯になる」、などという具合に、何らかの別の条件が加わった際には、全く罪でなかったものが、途端に罪とされる、とか、とても良いものが、途端に危険なものになる、などというように、たいていの物事というのは、その置かれた条件によって、良いものと認定されたり、悪いものと認定されたりするようなところがあるのです。

 そうすると、こうした物の見方からすると、「陰陽」のように、何でも、この世の中のものは、二つの極端なものに分けられるのか、というと、それは、はっきり言って、論理的には、完全な間違いで、たいていのものは、元々は、ほぼ価値中立、つまり、それ自身としては、白でもなければ、黒でもなく、また、善でもなければ、悪でもないものが、ほとんどであるのだが、ただし、何らかの条件の下では、良いものとされ、また、何らかの条件の下では、悪いものとされる、とか、何らかの条件の下では、行き過ぎと判断され、また、何らかの条件の下では、足りなさすぎと判断される、などというように、はっきり言うと、「いったい、どこの何を基準にするのか」、とか、「いったい、何を行き過ぎとし、何を足りなさすぎとするのか」、とか、あるいは、「いったい、何をもって、安全とし、何をもって、危険とするのか」、などということによって、わりと簡単に、良いものにも、悪いものにもなってしまうようなところがあるのです。

 ですから、こうした観点から見る限り、これは、ケースにもよるのですが、「陰陽説」のように、「何でも二つの極端の部分に分けられる」、というような考え方自体が、かなり極端な暴論に近いようなところがあって、実際には、「この場合には、二つに分けて、考えた方が、大変、便利だが、このケースの場合には、もっと繊細に、細かく見てゆかないと、そう簡単に、良い、悪いなんて、全然、言えない」、とか、「そう単純に、何でも陰陽とか、ポジティブやネガティブなどと考えることは、大間違いで、そうではなく、人間にとっては、高温でも、パンを焼いたり、金属を精錬するなら、まだまだ、低温であることもあるし、また、その反対に、人間にとっては、低温でも、アイスを作ったり、食品を保存するには、まだまだ高温ということもあるので、要は、その目的によって、適温や高温や低温の目安というのは、いくらでも簡単に変化するものである」、とか、「人間の中には、見かけは男性だが、性格は、完全に女性という人もいれば、その反対に、見かけは女性だが、性格は、完全に男性という人もいるので、本当は、肉体の形で、男性と女性などと、単純に二つに分けて、見るような見方は、間違いなのではないか」、などというように、現実の世の中というのは、単純な二元論で分けられるものと、そうした単純な二元論では、なかなか分けられないようなものがあるので、そうした単純な二元論で分けられないものに関しては、そんなに無理せずに、「たくさんのバラエティーの幅がある」、とか、それにも関わらず、「ちょっと行き過ぎたり、足りなさすぎたりすると、時々、問題が起きることがあるので、そこは、適度に、自分自身や周囲の人々とのバランスを考えて、行動すべきである」、などというように考えた方が、より世間の実態に近い、というか、より大人の物の見方になるのではないか、ということなのです。

 このように、現実の世の中では、何を基準に定めるかによって、その良し悪しが、かなり大きく変動してしまうものや、また、もっと単純に、いろいろな多様性のあり方や、幅広い物の見方を、素直に受け入れればよいようなものも、たくさんあるので、それゆえ、「常に、物事には、対極的な二つの要素がある」、とか、「常に物事は、二つに分けることができる」、というような「二元論」の考え方に関しては、よく考えてみると、ちょっと、かなり極端な一種の暴論、あるいは、近代以前の学問や科学技術の未発達な時代の人々であるなら、ある程度は、受け入れられたかもしれないような、一種の迷信に近いような要素が、かなり強いのではないか、というように、私は考えております。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年6月5日 9:03 PM, 中国思想 / 宗教、道徳 / 知恵、正しさ



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