今回は、前の「キリスト意識」の関連の話になるのですが、いわゆる日本人にも非常に馴染みの深い、仏教の「仏陀(ぶっだ)」についての話になります。
これは、また別の機会に詳しく触れたいと思っているのですが、実は、現在、多くの人々が、歴史上、実在の人物と信じている仏教の開祖、「釈迦(ゴータマ・シッダールタ)」に関しても、イエスについて述べたこととほぼ同じような、かなりごちゃごちゃとした、ややこしい経緯があるので、霊的に見た場合には、本当は、あまり信用しない方がよいところも数多くあるのではないか、ということなのです。
仏教に関して、特に問題が多いと考えられる内容としては、大体、以下のような五つの内容があげられます。
1、この宇宙の創造主が創った、人間や生物の生存に必要な食欲や性欲といった肉体的欲求は、単純に純粋に肯定されてよいはずなので、そうした肉体的欲求を、ほぼ全面否定することによる「悟り」は、そもそも最初から現実的に全く不可能だったのではないだろうか
まず第一には、元々、この宇宙の創造主のような存在が、人間や生物を創ったとすると(理性的、論理的に考えて、たとえ何億年、何十億年かかろうが、その辺の水や石ころが、そのうち勝手に、こんなに複雑で精妙精緻(せいち)な構造を持つ生物に進化するなんて、私には、全然信じられません)、人間の生存に不可欠な欲求である食欲や性欲といった肉体的欲求は、単純に純粋に肯定してもよいはずなのに、これが仏教では、仏教の開祖である釈迦自身が、ほぼ全面否定したことになっているので、この点で、もし釈迦が、宇宙の真理を体得した存在であったとするなら、こうした人間存在そのもの、さらには自然の姿そのものを全面否定していることには、大きな疑問があるということです。
もし、中道的観点から、こうした肉体の欲求を整理し直すなら、本来は、その行き過ぎや足りなさすぎが起きることによる問題や不幸を、最小限に押さえることが必要になる、というような人間の肉体的、精神的欲求のバランスをとることの重要性が強く強調されるべきなので、この点で、現在残っている仏教において、釈迦が説いたとされる肉体的欲求の全面否定による「悟り」の可能性は、実際には、ほぼゼロに近いのではないか、というのが、私の見解になります。
※一般に仏教では、仏教の開祖である「釈迦」が、快楽を追求しても、苦行を追求しても悟れなかったので、そのどちらにも寄らないような中道的な態度が重要である、と言われているのですが、ただ、実際には、仏教の修行は、基本的には、食欲や性欲といった肉体的欲求の否定を行っているとしか全く言いようがないので、ここでは仏教は、実質的に肉体的欲求の全面否定をしているのではないか、というような見方をとっております。
※民主主義や自由主義のなかった昔の時代には、食欲や性欲といった肉体的欲求を抑制して、普通、多くの人々が所属している一定の身分や、仕事や家庭から離れて、何らかの宗教修行を行うことは、即、俗世間や、国家の権力者から一定の距離をとることになるので、その人自身の思想的な自由や行動の自由を得るための、ほぼ唯一の手段であるような要素が、非常に強かったのではないか、と思われます。おそらく昔は、そうした目的で、一部の人々は、自分の肉体的欲求をある程度、自制することによる肉体的、精神的自由の獲得、さらには、この世の束縛自体からの自由を目指すことを「悟り」と考えたのではないのか、というように私は考えております。
Cecye(セスィエ)