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イエスについて Part 34

2、生涯独身のイエスと、処女降誕のマリアを信仰の中心に据えることの霊的な危険性について

 第二には、これも考えてみれば、ある意味で、当たり前の話になってくるのですが、「イエス」と言えば、処女降誕で有名な「聖母マリア」という具合に、たいていの人は、キリスト教というと、あの十字架にかかったイエス・キリストの像と一緒に、その次には、たいてい、あの美人で、優しそうな聖母マリアのイメージが思い浮かぶことになるのですが、これも、霊的に考えてみると、結構、根深い宗教的な問題を引き起こすような内容になっている、ということなのです。

 それは、いったい、どんな内容なのか、というと、多くのキリスト教の人々は、まるで毎日の最も大切な習慣でもあるかのように、あのキリスト教の偉大な聖人である、イエス・キリストは、いったい、どのような経緯で、この世に生を受けたのか、ということや、また、いったい、どのような経緯で、偉大なメシアとして、扱われるようになったのか、ということを考えるようになってゆくのですが、たいてい、その内容というのは、「イエス様が生まれる前には、ものすごい天使が来て、救世主が生まれることを予言されて、その上、そうした救世主であるイエス様が生まれる時には、そのお母さんであるマリア様は、全く何の罪も穢れもない、セックスレスの状況で、ご懐妊になられて、イエス様をお産みになられた」、というような、救世主と、その偉大な母の強烈なイメージが、すぐに思い浮かぶようになるのですが、私は、はっきり言って、霊的に見た場合、これほど、霊的に危険な聖人と、その母のイメージはないのではないか、というほど、こうしたイエスと、その母マリアのイメージというのは、かなり危険なものなのではないか、と感じているのです。

 さて、それでは、現在、伝えられているようなイエスと、その母、聖母マリアのイメージの、いったい、どこが、そんなに霊的に危険であるのか、というと、細かく話せば、本当にきりがないほど、長い話になるのですが、大まかに、その要点だけを述べると、大体、以下のような二つの内容になります。

 

①イエスと、その母のマリアを、あまりに特別な聖人中の聖人のような扱いにしてしまうと、結果として、非常に盲目的で、受け身な信者ばかりを、大量に育成することになってしまう

 まず第一には、たとえ、イエスのような、一種のメシアのような仕事をした人であったとしても、このような形で、もう生まれる時から、普通の平凡人とは全く違った聖人中の聖人で、その上、その母も、普通の凡人とは全く違った、聖人中の聖人である、というような、非常に強い宗教的な物の見方を、信仰の根幹に据えてしまうと、そうした信仰を持った人々は、その後、いったい、どうなるのか、というと、イエスや、その母マリアは、普通の平凡人とは、全く違った聖人中の聖人なので、そうではない、普通の平凡人である自分達には、そうしたイエスみたいな仕事は、生まれながらにして、全く無理なので、「とにかく、そうしたイエスの教えを伝えている教会の偉い人の話を、ただ、ひたすら、盲目的に、受け身に聞いていればいいし、また、何かあった時には、そうした教会の偉い人に、一つ一つ、お伺いを立てて、言われた通りにしていればよい」、というような、はっきり言うと、非常に盲目的で、受け身の姿勢を持った信者ばかりを、大量に育成することになってしまう、ということです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年2月7日 9:02 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観



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