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聖書について Part 1

 少し質問が来ていたので、今回は、ごくごく手短かに「聖書」についての私の見解を載せたいと思います。

 みなさんもよくご存知のように聖書というのは、旧約聖書と新約聖書を合わせると結構、膨大な長さの宗教経典になるので、とてもではないが、こうした短い文章でそのすべてについて、ああだこうだなんて言えないようなところがあるので、それゆえ、ここでは現在の時点で私の感じている聖書に関する大雑把な感想を述べることのみに留めておきたいと思います。

 

1、どんな宗教であっても長い歴史の間には、政治がらみの「政治宗教」、もしくは「国民統一のための思想統一教」のような色彩を強く持つようになってゆきがちであった

 まず第一には、これはある意味で当然のことなのではないかと思われる内容になるのですが、どの宗教経典も多くの人々の単純な思い込みとはかなり違って、何百年何千年の歴史の間にそうした宗教の営まれている国の為政者のような人々から何度も何度も、いろいろな形でしつこく介入され続けてきたような歴史の経緯があるので、はっきり言うと世界中、どんな宗教であっても、政治がらみの「政治宗教」、もしくは「国民統治のための思想統一教」のような色彩を持っていることが非常に多いということです。

 ですから、こうした観点から見る限り、たとえ聖書のような、いっけん非常に歴史の古い宗教経典であったとしても、「聖書にすべての真実が述べられている」とか、「聖書を読めば、すべての真理が分かる」というのは、本質的にお門違いのようなところがあるということです。

 

2、膨大な経典がある宗教というのは、どうしてもすぐに「経典主義」や「文書主義」になって、一人一人の幸福を軽んじてゆきやすいという根本的な問題点がある

 第二には、これは前にも少し述べたのですが、とにもかくにも膨大な経典を有するような宗教というのは、一般にそうした膨大な経典の権威というものをものすごく重んじた「経典崇拝」というか、今日的な言葉で言うと一種の「文書主義」のような形態になりやすいのですが(いわゆる言葉で聞くと大したことないと思ったとしても、文書で書かれていると「何となく凄い!」と錯覚してしまうようなところがあるということです)、これは今日の学校教育の問題とも非常によく似ているのですが、要するにそうした経典や文書を重んじて、一人一人の人間としての幸福を軽んじるような物の見方にすぐに偏ってゆきやすいという点において、かなり問題があるのではないかということです。

 ですから私は、そうした結構、膨大な宗教経典があるような宗教であればあるほど、一人一人の幸福を大切にして、より柔軟にその時代や地域の特性に合わせたいろいろな解釈ができるような、より合理的で柔軟な物の見方を持つことがとても大切なのではないか、というように率直に感じております。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年12月15日 9:02 PM, おすすめ記事 / キリスト教 / 宗教、道徳 / 政治



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