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宗教選びの五つの要素について Part 9

これまでの数千年に渡る、学問や科学技術が未発達の時代において、多くの人々の苦しみや悲しみを癒し、心の底からの願いや要望を満たすために、本当の真実の追求というよりも、そうした多くの人々の精神的な欲求の、より完全な充足のために発達し続けてきたのが、現在、数多くある宗教の実態だったのではないだろうか

 ここまで、大きく四つの宗教のあり方を説明してきたのですが、要するに、こうした宗教のスタイルというのは、よく考えてみると、多くの人々は、本当に心の底から、そうした宗教の信仰を信じているのではなくて、そうではなく、これは、その時代の、その国や地域の事情によって、結構、大きく異なるような要素があるのですが、要は、その時代の、その国や地域において、多くの人々が、心の底から、熱烈に熱望しているにも関わらず、現実には、学問や科学技術の未発達が原因で、まだ、どうにも実現できないような内容に関しては、「どうせ国王や貴族に言っても無駄だし、偉い学者に相談しても、解決できるわけないし、また、どんなお店に行っても、絶対に、お金で買えるわけないし、それから、どんなに個人として、一生懸命、努力しても、絶対に叶うわけないのは、よく分かっているので、もう、そうした人間としての心の底からの願いや要望のようなものは、とにかく、目に見えない、もっとはっきり言うと、会ったこともないし、絶対に会えるわけもないような神仏に祈って、神頼みすることにしよう」、とか、あるいは、「そうした神仏を信じて、この世の、どうにもならない悩み事や迷い事は、できるだけ考えないようにして、一日一日を、精一杯努力して、乗りきってゆこう」、というような宗教生活のスタイルになってゆきがちであった、ということなのです。

 つまり、本当は、真実かどうか、とか、正しいかどうか、ということよりも、「溺(おぼ)れる者は、藁(わら)をもつかむ」、というような格言通りの心境で、「どんな大変な時にも、とにかく、一日一日を、何とか、心の平静を保ちながら、生きてゆきたい」、とか、「誰か信頼できる人に、今は、大変でも、とにかく、将来は、良いことがあるんだと、力強く言ってほしい」、とか、「どんなに大変な毎日の繰り返しであっても、毎日、一生懸命、信じ続けていれば、いつかは、救われると、誰かに保証してもらいたい」、とか、「どんなに愚かな人間でも、今すぐ出来る、信じるという行為だけで、永遠に幸せに暮らせるような最高の世界に連れて行ってほしい」、などというような、多くの人々の切実極まる、強い願いや要望を満たすために、はっきり言うと、本当の真実や正しさを求めるというよりも、そうした多くの人々の精神的な欲求の、より完全な充足のために、何百年、何千年かけて、どんどん発達し続けてきたのが、現在、数多くある宗教の本当の実態だったのではないか、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年10月27日 9:21 PM, コラム / 人生観、世界観



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