前の原稿にあって、自分で、とても面白いと思った内容だったのですが、なかなか発表する機会がなかったので、ちょっと時間を作って書くことにしました。
歴史の長い国の歴史教育と、歴史の短い国の歴史教育について
これは現代の社会では、まだほとんど客観的によく理解されていないことのように見受けられるのですが、私の見るところ、日本や中国のように歴史の長い国の歴史教育と、アメリカのように歴史の短い国の歴史教育とでは、その教育内容や教育効果の点で、全く違ったものになってしまうということなのです。
歴史の長い国の歴史教育を受けると、多くの人々は、ものすごく政治的に従順な、他人任せの受け身の政治観を持つ国民になってゆきやすい
まず歴史の長い国の歴史教育について、考えてみたいと思うのですが、歴史の長い国の歴史教育では、これは、その国の歴史の長さにもよるのですが、たいてい、そうした歴史教育のうち、トータルで見ると、実質的に6〜7割から、場合によっては、7〜8割ぐらいが、ほとんど全部、民主国家となる以前の国王や皇帝の統治の時代の話ばかりになってしまうので、歴史教育の実態としては、ほぼ国王や皇帝の統治の下で、いったい、その国や民族は、どのような歴史を歩んできたか、というような話ばかりになってしまうのです。
そうした歴史教育を受けると、いったい、どのような国民性になってゆきやすいのか、というと、大体、以下のような三つのことが言えます。
まず第一には、その国の歴史、というか、政治というのは、普通の一般の人々ではなくて、どこかの選ばれた偉い人々だけが勝手に決めたり、勝手に動かしてゆくというような歴史観、というか、政治観を持っていきやすいので、その結果、たとえ民主主義国であっても、そうした歴史教育を受けると、多くの人々が、常に政治に対して、ものすごく従順な、一方的に言うことを聞かされてゆくような受け身の国民性になりやすいという欠点があります。
第二には、そうした歴史教育を受けると、たいてい何度も何度も出てくるのが、「誰それが反乱したが、うまく行かなかった」とか、「天子の周りにとんでもない欲ばりの取り巻きが出てきて、政治をかく乱したので乱れた世の中になった」とか、「王様が良い政治をしようとしたが、結局、うまく行かなかった」というような話になるので、その結果、こうした歴史教育を受けた人々というのは、「政治というのは、どこかの偉い人にすっかり任せておくのが一番良いのだ」とか、「普通の人が政治の世界に口出しすると、絶対、ろくなことがないのだ」というような政治観を持ちやすくなってしまうということです。
第三には、これは民主主義国の市民教育としては、非常に大きな害のある内容になるのですが、こうした歴史教育を受けると、何となく、「歴史というのは、神、あるいは、運命によって選ばれた、ものすごい人が勝手に、いつの間にか作り上げてゆくものだ」とか、「歴史というのは、普通の一般の人々の意思や行動には全く関係なく、いつの間にか勝手に出来上がってゆくものだ」というような歴史観を持ちやすいのです。
ところが、よく考えてみると、こうした考え方というのは、「政治というのは、一人一人の市民が積極的に参加して、動かし作り上げてゆくものだ」とか、「一人一人の市民の努力や行動の積み重ねによって、その国の新たな歴史を一つ一つ築き上げてゆくのだ」というような民主主義国の市民の立場とは、基本的に全く正反対の考え方を押し付けられたのではないか、ということなのです。
歴史の短い国の歴史教育は、自然と民主主義の発祥と発展の歴史の説明になってしまうので、多くの人々は、より自由に積極的に政治に参加し、世界を変えてゆこうとするような明るい歴史観や世界観を持つようになってゆきやすい
さて、それでは今度は、歴史の短い国の歴史教育について考えてみたいと思うのですが、先ほどの歴史の長い国の歴史教育とは正反対に、そうした歴史の短い国の歴史教育では、その内容のほとんどが、民主主義の発祥と発展の歴史になってしまうということなのです。
つまり、その国の歴史教育の実態としては、せいぜい最初の1〜2割ぐらいのところに、それ以前の昔の王制や帝制の記述が書いてあるだけで、それ以降は、えんえんと、「いついつ誰それが、こんな言動をして民主主義としての国のあり方を説いた」とか、「誰それの反乱によって、その国は劇的に変化して、現代のような民主制度に大きく変革されることになった」とか、「こんなとんでもない大問題が起きたが、その後、民衆が直接選んだ大統領を中心に多くの人々が積極的に協力し合うことによって、少しずつ乗り越えてゆき、そして今日の大きな繁栄を手に入れられるようになった」というような歴史の話がたくさん書いてあるような、言ってみれば、歴史の勉強というよりも、民主主義の発祥や発展について書かれた市民教育のテキストのようなものになっているのです。
そうすると、こうした歴史教育を受けた人々というのは、いったい、どのような国民気質を持つようになるのか、というと、大体、以下のような三つのことが言えます。
まず第一には、何かその国で、もめ事や混乱が起きた際には、「とにかく、その国のリーダーが何とかしてくれる」というような考え方ではなくて、「多くの一般市民としては、どうあるべきか」とか、「何をすべきか」というような一般市民が主役の、一般市民が積極的に行動するような政治観を持っていきやすいということです。
第二には、こうした民主主義国の発祥や発展の歴史を理解していると多くの人々は、「歴史に正解なんてないので、たくさんの試行錯誤を繰り返しながら、その中で最善の結論を見いだしてゆくことが大切なのだ」とか、「誰それと言われる偉大な人物も、いろいろな苦労や試行錯誤の末に、何とか当時の時代としては最善と思われる偉大なことを成し遂げたので、自分達も彼らの人生を見習って、たとえ、そう簡単にうまく行かなくても、少しずつ地道な努力や行動を積み重ねることによって、現在以上に素晴らしい国づくりを目指してゆこう」というような、どこかの誰かに神頼みするような政治観ではなく、一人一人の市民が主体的に行動することによって、国家を維持し、そして明日の国家の平和と繁栄を築いてゆこうとするような政治観を持つようになってゆくということです。
第三には、そうした歴史教育を受けると、歴史というのは、どこかの偉い誰かが勝手に作り上げていったり、いつの間にか自然に決まってゆくようなものなのではなくて、一人一人の市民が動かなければ、何も変わらないし、また何も良くなるわけでもないということが、しみじみ実感されてゆくようなところがあるのです。
ですから、そうした国の歴史教育を受けると、「今日、誰かが何か新しい行動を起こせば、それによって明日の歴史は、もっともっと良い方に大きく変わるかもしれない」とか、「歴史は、どこかの偉い誰かが勝手に決めるものではなくて、多くの市民の努力や行動の積み重ねによって、いくらでも自由に変えてゆくことができるのだ」とか、「現在の国のあり方に問題があるのであれば、多くの人々の知恵と行動によって、すぐに良い方に変えるためのアクションを始めればよい」などというような、わりと柔軟、かつ、かなり自由で変更可能な歴史観や世界観、というか、政治観を持つようになってゆきやすいのです。
このように実は、いっけん、どこの国も同じように行っているように見える歴史教育というのは、歴史の長い国と、歴史の短い国では、全く正反対の教育効果をもたらしてしまうようなところがあったのです。
現在のような「民主主義国、日本」の歴史教育としては、民主化以前の歴史は、せいぜい全体の中の1割程度に圧縮して、全世界的な視点で、フランス革命やアメリカ革命の辺りからの民主主義の発祥と、その発展の歴史を自国の民主主義の発祥と発展の歴史を絡めながら理解することが、市民教育としては最も適切なのではないか
そうすると、これは、まことに単純な結論なのですが、要するに現代のような民主主義全盛の時代には、はっきり言って、歴史小説や歴史ドラマを読んだ時ぐらいしか役に立たないような長い長い、ほとんど同じような繰り返しの歴史教育なんて全く意味がないので、思い切って完全に廃止して、そうではなくて、民主主義国であれば、全世界的な視点でもって、フランス革命やアメリカ革命(American Revolutionからの直訳)(独立)の辺りからの民主主義の発祥や発展の歴史を中心にして、その中での多くの人々の努力や試行錯誤の歴史を中心に、自分の国での民主主義の発祥や発展の歴史を教えてくれれば、市民教育における歴史教育としては、その方が、よほど良いのではないか、ということなのです。
ですから現時点で推奨されるのは、日本の場合だったら、民主化以前の歴史は、せいぜい歴史の教科書の中では、1割程度(多くても2〜3割程度)に圧縮して、近代のフランス革命やアメリカ革命の辺りからの民主主義の発祥と発展の歴史を中心にして、その中での近代日本における民主主義の発祥と、その発達の歴史をよく知ることが、本当は「民主主義国、日本」の歴史教育としては、最も適切なのではないか、ということです。
※つまり、ひっくり返して言うと、いっけん正当そうな理由で歴史の長い国では、歴史教育を通じて、政治的に統治しやすい国民を大量育成するような「反市民教育」と言っても良いような一種の洗脳教育が行われていたので、こんなもの、もうそろそろ、やめたらどうなのか、ということです。
Cecye(セスィエ)
2011年8月13日 9:22 PM, おすすめ記事 / コラム / 人生観、世界観 / 政治 / 教育 / 歴史 / 知恵、正しさ / 社会、文化