3、おそらく、中国の漢字全盛の平安期の日本における「ひらがな」の位置づけは、現代の女子高生の「メル文字」と、さほど違わなかったのではないか、と想像されるので、そういう作品にさも権威をつけて、学校の教室で難しい古語のまま教えようとするのは、そもそもの源氏物語のポリシーに反しているのではないか
第三には、これは今も少し述べたのですが、とにもかくにも、この源氏物語というお話は、当時の人々の普通の日常語で、しかも当時のインテリには、かなり馬鹿にされたはずの「ひらがら」で書かれていることから、これは、どう考えてみても現代人が、昔の古語で読むようなタイプの書物ではないということです。
つまり、今から千年ぐらい前の、何でも漢字表記が当たり前だった時代の日本における「ひらがな」の位置づけというのは、現代人の感覚で言うと、多分、せいぜい女子高生の使う「メル文字」のような位置づけだったのではないか、というように私は率直に理解しているのですが、そうした種類の本を、現代人には、難解極まる古語のオンパレードで(ほとんど意味不明?)、しかも試験付きで勉強しろというのは、そもそもの源氏物語のポリシーとは全く違うのではないか、ということなのです。
それというのは、千年前の源氏物語の歴史的な位置づけというのは、現代風に言うと、仮名と漢字ばかりの小説が主流の数十年前の時代の日本で、誰でも気軽に読めて楽しめる、少年少女マンガが台頭してきた頃のマンガの位置づけとほとんど一緒だったのではないか、というように考えられるからなのです。
こうした観点から考える限り、これは時代を無視して、一緒に並べてみると非常に分かりやすいのですが、要は、現代の学校のような形で、源氏物語を授業で教えるというのは、言ってみれば、学校の先生が、現代の少年少女マンガにものすごい権威をつけて、偉そうによく分からないような難しい理屈をこねて教えているのと、実態としては、ほとんど変わらないような要素があるということなのです。
それゆえ私は、現在の日本のように、さもものすごい権威と魅力があるかのように、よく分からない古語で、源氏物語の何たるかを教えようとするような学校の授業というのは、いくら千年前の文学だからって、実際の源氏物語の実態には、全くそぐわないものなのではないか、というように率直に感じています。
Cecye(セスィエ)