2、十数年、学校に通ううちに、ほとんどの人は、自分が、本当に幸福を感じている時の感覚と、本当は、幸福を感じていないにも関わらず、あたかも幸福であると錯覚している時の感覚の違いが、全く分からなくなってしまう
第二には、これも、よくよく考え直してみないと、よく分からないような内容なのですが、私が、現代の日本の人々を、客観的に観察する限り、現在のような日本の学校教育を受けると、なぜか、ほとんどの人々が、本当の幸福感と、それとは、微妙に違った、偽物の幸福感、というか、幸福感の錯覚との区別が、はっきりと、つけられなくなってしまうように見える、ということなのです。
これは、例をあげて、説明したいと思いますが、例えば、次のような三つのケースの場合、ほぼ間違いなく、現在の多くの日本人は、本当の幸福感と、それとは、微妙に違った、偽物の幸福感、というか、幸福感の錯覚との区別が、多分、ほぼつかないのではないか、ということなのです。
まず第一には、「やっと仕事が終わった」、とか、「やっと目標が達成できた」、というような達成感や充実感というものを、多くの日本人は、幸福であると錯覚していることが多いのですが、私が、客観的に見る限り、こうした仕事をしている最中には、本当は、かなり強いストレスや疲労感を感じ続けていることが多いし、また、そうした仕事が終わった直後にも、ほんの一瞬だけ、ちょっとした開放感のような気分が味わえるだけなので、実際には、端から見る限り、それは、本当の幸福の感覚ではなく、言ってみれば、単なる長い長い緊張感の連続や、そうした長い長い緊張感から開放された一瞬のリラックスした状態のこと、つまり、はっきり言うと、ほとんど、不幸の連続した状態そのものなのではないか、ということです。
第二には、巷に、よくある幸福の理想型として、「結婚することが、最高の幸せ」、とか、「子供を産むことが、最高の幸せ」、というような幸福感の概念があるのですが、これも、冷静に客観的に見る限り、若い男女が、一緒にいられることや、結婚式の様子や、子供が産まれた直後には、それなりに、かなりの幸福感が感じられることは、確かに事実ではあるのですが、しかし、実際の生活を見てみると、結婚しても、その後は、結構、地味で、我慢を強いられるような生活が続くことが多かったり、あるいは、子供が産まれても、その後は、現在の日本だと、親は、子供のために、実際、かなりのきつい経済的、あるいは、肉体的、精神的負担を強いられることになるので、これは、はっきり言って、申し訳ないのですが、こうした幸福感というのは、本当の幸福というよりも、冷静に客観的に見る限り、実態としては、単なる幸福感の錯覚なのではないか、というように見えることすらある、ということです(多分、これが、現在の少子化の本当の原因なのだと思います)。
第三には、「お金や財産があれば、幸福!」、というような考え方があるのですが、確かに、現在の日本のような経済社会では、お金がないと、かなり行動面での制約を強いられることになる、というのは、事実なのですが、しかし、冷静に世の中を見渡してみると、一般庶民から見ると、結構な、お金持ちのように見える人々が、実際には、「将来のことを考えると、もっとお金がないと不安だ」、とか、「仕事が忙しくて、家族を過ごす時間や、好きなことをする時間が、ほとんどない」、などと嘆いていたりすることが多かったりする、などというように、意外と、その人の持っているお金や財産の額と、その人の幸福感の量とは、あまり一致していないことが、実際には、非常に多いのではないか、ということなのです。
そうすると、ここで、素朴な疑問が出てくるのですが、それは、一体、何なのか、というと、「なぜ、自分は、本当に幸福であると感じている時と、そうではなく、本当は、あまり幸福でないと感じているにも関わらず、それを、あたかも、本当の幸福であるかのように錯覚している時の違いが、全く分からなくなってしまったのか」、ということが、ここでは、一番の問題になってくるのですが、その理由は、どう考えてみても、これは、学校教育の弊害以外の何者でもない、というのが、私の結論なのです。
つまり、十数年の学校生活を通して、学校で教える幸福感の概念というのは、大体、次のような三つのものなのです。
①毎日、どんなに平凡で退屈な、我慢を強いられるような学校生活であったとしても、とにもかくにも、そこにいて、言われた通りにするのが、人間として、最も当たり前の普通の生活なのだ。
②原則、男女は、いつも、別々に、きっちり分けて、扱うし、また、学校で、男女が、いちゃいちゃするなんて、もっての他の最低のことなのだ。だから、自分の正直な感覚なんて、すべて無視して、とにかく、正式な結婚によって、普通の夫婦生活ができるだけで、それを最高の幸福だと考えなさい。
③自分が、本当に、やりたいことや、好きなことは、学校が、休みの日や、卒業した後にやればいいではないか。だから、普段の生活では、どんなに嫌なことでも、決して、嫌とも思わずに、教師や学校の指示した通りに、淡々と続けることが、一番、大切なのだ。 というような幸福感の概念になるのではないか、と私は思うのですが、これは、客観的に見る限り、その人自身が、本当に、心から感じるような幸福感というものを、ことごとく無視して、そして、そうではなく、外部の人間が、無理やり、一方的に押し付けてくる偽物の幸福、というよりも、幸福感の錯覚のような気分を、あたかも、本当の幸福であるかのように、十数年の間、ひたすら、受け入れさせられ続けてきた、ということの結果以外の何者でもないのではないか、というのが、私の考えなのです。
それゆえ、学校というものを、一つの強い信念体系を教える一種の宗教のようなものであると見立てた場合には、これは、間違いなく、本当の幸福を教えるような、正しい宗教ではなく、そうではなく、言ってみれば、人間というものを、何らかの有益な作業だけをこなすような、一種の機械やロボットに仕立ててゆくために、偽物の幸福を、あたかも本当の幸福であるかのように、心から信じ込ませるための、一種の「ニセ幸福教」のような宗教であるとしか、言いようがない、というのが、私の結論なのです。
追伸
要するに、学校にいる間に、ほとんどの人は、気がつくと、「勉強や仕事は、嫌なことを、我慢してでも、とにかく、一生懸命、やり続けることが、大切なのだ」、とか、「とにかく、結婚して、男女が一緒に暮らせることが、幸福なのだ」、とか、「普段の仕事や生活では、とにかく、嫌なことでも、言われた通りにやることが、大事で、自分が、やりたいことや、好きなことは、休みの日とか、空いた時間に、ちょっとだけしか、やってはいけないんだ」、というような人生観を持ちがちであるのですが、しかし、本当に、自分自身の気持ちに正直な生き方をするなら、「勉強でも、仕事でも、自分が、一番、幸せだと感じられるような勉強や仕事をして、それで、一生、過ごしてゆけるなら、それが、一番、いいんじゃないか」、とか、「男女で、一緒にいること自体が、幸福なんじゃなくて、男女で、毎日、一体、どれだけ、お互いに、一番、幸せだと思えるような生活をしてゆくか、ということの方が、よっぽど大切なのだ」、とか、「毎日、嫌なことをし続けるのではなくて、毎日、自分が、一番、好きな楽しい勉強や仕事ができるなら、それが、一番、いいんじゃないか」、というような人生観になってくるのではないか、ということなのです。
ですから、こうした観点から見る限り、私は、決して、学校という存在自体が、すべて悪いと言っている訳ではないのですが、ただ、多くの人々への精神的効果の観点から見てみる限り、はっきり言って、現在の学校制度というのは、すべての国民に対する「不幸の押しつけ教」のような疑似宗教以外の何者でもない、というのが、率直な感想なのです。
Cecye(セスィエ)