いよいよ、今回から、試験制度についての最終的な総括の話になります。
前回も、少し触れたのですが、実は、試験制度というのは、現代のような宗教衰退化の時代において、姿を変えて、生き残ろうとしている、宗教とは、非常に似て、非なる「疑似宗教」以外の何者でもない、ということなのです。
それでは、試験制度というのは、一体、どのような点で、疑似宗教と言えるのか、というと、大体、以下のような四つの内容になります。
1、多くの人々への精神的な効果としては、試験における合格と不合格というのは、宗教における死後の天国と地獄の位置づけと、あまり差がない
まず第一には、前にも述べたように、たいていの試験制度というのは、多くの普通の人々が、自分達の意思で、直接、選んだわけでもないような、はっきり言うと、どこの誰とも、全くよく分からないような一部の人々の手によって、多くの人々のうち、一体、誰を合格させて、彼らの仲間に加えるのか、とか、あるいは、その反対に、多くの人々のうち、一体、誰を不合格にして、彼らの仲間から排除するのか、ということを、ほぼ一方的に決められる、というような点において、これは、あくまで、この世の物質世界に限定された話ではあるのですが、こうした試験制度における合格と不合格の位置づけというのは、よく宗教が説いている死後の天国と地獄に関する教義の内容と、ほとんど同じである、ということなのです。
つまり、よく宗教においては、多くの人々が、何らかの信仰や教えに基づいて、一定期間、地上の世界で生活した後には、やがて、来世において、天国の生活と地獄の生活に、はっきり区分けされることになる、というような教義になっていることが、非常に多いのですが、こうした試験制度というのも、多くの人々が、義務教育によって、ほぼ強制的に、一定期間、国家が定めた教科書の内容を勉強させられた上で、試験によって、多くの人々の税金によって、人々が羨むような豊かな生活ができるエリート階級と、そうではなく、そうした税金を一方的に収めることになる普通の一般庶民の階級に分けられる、というような点において、それが、物質世界に限定されているか、それとも、物質世界を超えた来世の世界も含めているか、というような違いこそあれ、はっきり言って、客観的に見る限り、宗教であっても、また、試験であっても、その本質や方法や効果の点においては、ほとんど違いがない、ということなのです。
追伸
なぜ、試験のことばかり、かなり丁寧に書くのか、というと、これに関しては、スピリチュアリズムに詳しい人も、また、教育に詳しい人も、あまり試験自体に対する直接的な批判をした人が、これまで、あまりいなかった、ということと、それから、とにもかくにも、霊的に見た場合、これは、多くの人々のこの世的な理解を超えて、特に多くの先進国では、なぜか、数多くの試験の体験というものが、多くの人々の心の中に、非常に強い恐怖心や自信喪失の感覚や、強い支配欲の意識を生み出すためのマイナスの働きをしていることが、非常に多かったからなのです。
それと、霊的に見る限り、実は、現在の地球を見回してみて、この地球の人々に対して、一番、大きな精神的影響を与えている教育機関は、一体、何なのか、というと、それは、一昔前のように、仏教やキリスト教やイスラム教のような大宗教ではなくて、そうではなく、もはや、たいていの場合、実は、国家が運営している公立学校になっている、ということが、その大きな理由であるのですが、この学校という組織が、普通の一般市民の考えや思い込みとは違って、ちょっと民主主義国の教育機関のあり方としては、本当は、かなり問題があるのではないか、というのが、ここで伝えたい趣旨である、ということなのです。
Cecye(セスィエ)