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試験が、絶対正しいとは限らない Part 1

 今回から再び、教育の話になります。

 

 現在の日本だと高校や大学を初め、各種資格試験などにおける試験制度というのは、多くの人々の間で、非常に絶大な権威をもって受け入れられているのですが、ところが、この試験制度というのは、気を付けておかないと、霊的にも、また現実の物質世界での生活においても、非常に危険なところがあるのです。

 

どんな試験であっても、その試験によって、本当にその人の知識や技能の有無が分かることと、本当は全く分からないことの二種類の内容がある

 これは戦後、数十年経って、現代のように多くの人達が、大卒の学歴を持っているような時代のみなさんには、ある意味で、ほとんど常識なのではないか、と私は思うのですが、実は、高校や大学の入学試験を初め、その他の各種試験についても、これはほとんど同じなのですが、どんな試験であっても、それは、ある一定の出題範囲内の問題に対するその人の解答能力への評価や、それから、そうした試験を受けた時点でのその人の知識や技能の達成度の証明しか原則できないものであるということです。

 それゆえ、こうした「試験」というものの性質上、実は多くの人々が、どんなに難しい試験であると感じているような試験であったとしても、その試験によって、その人にどの程度、知識や技能があるのか、ということが、客観的にはっきり分かる部分と、それから、その反対に全く分からない部分の大きく二種類の内容が必ず出てくるのです。

 

①どんな試験であっても、常に一定の出題範囲の中での知識や技能しか問えないのだが、なぜか多くの人々は、難しい試験に受かった人は、何でもうまくできると錯覚しがちである

 少し内容がややこしいと思うので、もう少し細かく説明したいと思うのですが、まず第一には、どんなに多くの人々が、ものすごく難しいと感じているような試験であったとしても、そうした試験には必ず、「どんな内容について、どの程度問うのか」とか、「どんな方法で問うのか」とか、それから「どの程度答えられたら、正解とするのか」というような、その試験における明確な出題範囲と解答(あるいは、正解の範囲)というものが、あらかじめ決まっているのです。

 ですから、これは別の観点から見ると、どんなに難しい試験をパスした人であっても、はっきり言って、その人が知らないことや、できないことというのは、絶対に山ほどあるはずである、ということになるのですが、ところが、ここで多くの人々の心の中には、非常に不思議な錯覚が生まれることになるのですが、それは一体何であるのかというと、なぜか多くの人々は、それ以前の学校生活において、あまりにも長期間に渡って、学校的な考え方を仕込まれすぎてしまったためか、「難しい試験を受かった人は、絶対に頭がいいし、何でもうまくやってくれるはずだ」というような、はっきり言うと、ほとんど完全に現実無視の誇大妄想や過信のようなことを強く思い込んでしまいがちであった、ということなのです。

 

 続く・・・

 

 追伸

 ここ数ヶ月の経験からすると、この手の内容を書くと、私の私生活にものすごく邪魔が入ってくるのと、ランキングのページが、ごちゃごちゃして下がるらしい(これも毎日、何百人も読んでいて、読み手が減っているならともかくとして、その1割の人も、ずっとクリックしないことになっているようなので、最近はあまり信用していないのですが・・・)というのは、だんだんよく分かってきたのですが、しばらくして、後からそうした内容を読み直してみると、私としては、「自分が、もっと若い時にこうした知識を知りたかった」と思うことが多いので、そうした、ごちゃごちゃしたことは全く気にせずに、こうした少し変わった世の中の見方を知りたい方のためだけに、何回かに分けて書き進めてゆきたいと思います。

 

 結論から最初に言うと、試験制って、悪魔の最終兵器の一つなんです。

 簡単に要点だけ言うと、これをやると、こうした試験に受かった人は、「ああ、良かった。これで当分安心して、楽して良い生活ができる」と思うことが多いし(大変な勉強をした後なので、当然の感想です)、その反対にこうした試験に受からなかった人は、「自分とあの人達とは全然違うんだ。試験に落ちた以上、もう試験のことをごちゃごちゃ言っても仕方ないし、自分には、その資格すらない」なんて考え方を、すぐ持ちがちであるのですが、これって現代のような平等社会において、万人に納得させるような形で隠れた身分制を作るために、彼ら闇の勢力の連中が、いつもやる方法の一つなんです(ある意味での宇宙標準です)。

 それゆえ、ここでは細かい説明は省略しますが、こうした試験にものすごく権威をつけるような国には、たいてい後に何か隠れた身分制のようなものがあることが多いというのが、私の結論なのですが、それよりも問題なのは、この身分制というのが、裏に隠れた非公式なものになっているために責任の所在が曖昧で、よく政治というか、国家運営に失敗しがちであるということと、それから、たいてい、そうした身分制の維持のために裏で国民総不幸化政策のようなものをポリシーにしていることが多いので、その結果、そうした国というのは、いくら、いっけん民主主義で経済発展して、先進国入りできたとしても、大多数の国民は、いつまで経っても、いまいち幸福になれないような社会の状態に末永く置かれがちであるということなのです。

 ですから、こうした試験制度というのは、みなさんが信用しているほど、それほど最高に良い制度とは言えないし、また、たくさんの普通の市民が参加して、結構細かい外部的なチェックを行っておくようにしておかないと、はっきり言って、すぐにおかしくなってしまうような結構、当てにならないようなところがあるのです。

 

Cecye(セスィエ)

2010年11月15日 9:35 PM, おすすめ記事 / 宗教、道徳 / 教育 / 知恵、正しさ / 社会、文化



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