今回は教育の話の続きになります。
本当は、もっと簡潔にまとめたかったのですが、多分、短く書いても意味がよく伝わらないと思ったので、何回かに分けて、人間に上下をつけることの霊的、地上的な危険性について書いてみたいと思います。
子供に自分より上の人間がいるとか、自分より下の人間がいるというような人間の上下の感覚をあまり強く押しつけてはいけない
現在の日本の教育制度を見ていて、一体何が一番問題なのかというと、とにもかくにも小学校から中学、高校、大学に至るまで、授業からクラブ活動まで教師と生徒の間の上下関係とか、先輩と後輩の間の上下関係などというように「自分より○○さんの方が上で偉いので、何かあるたびに素直に言うことを聞かないといけない」とか、「自分より○○君の方が下だから、呼び捨てにして、いろいろ好きに使ってよい」などというように、あまりにも多くの場面で人間の上下をはっきりつけさせるような機会が多すぎるということなのです。
これはキリスト教や民主主義の歴史が長く、人間平等の観念の強いアメリカやヨーロッパの人だと、「ああ、そうでしょう」と比較的簡単に受け入れられるような内容であるにも関わらず、昔から儒教などの影響を強く受けて礼節とか、人間の上下の序列のような観念を強く植え付けられた日本や中国の人だと、「人間に偉さの違いがあるなんて当然じゃない」などというように多分、なかなかそう簡単には受け入れづらい内容になるのではないかと私は思うのですが、今回から霊的に見た、こうした人間の上下の感覚や服従、命令の問題について、何回かに分けて述べてみたいと思います。
一部の権力者が、多くの人達をより簡単に支配するために、多くの人々に人間に上下があるとか、服従や忠誠の大切さを強調するような「政治宗教」を説かせた
まず第一に言えるのは、「男女の違いや年齢の違いによって、人間には偉さの違いがある」とか、「自分の周りには、自分が絶対に言う通りに従わないといけない人と、その反対に自分が自由に命令してもいい人と、そのどちらでもない自分が対等に好き勝手なことを言ってもいい人の3種類の人間がいる」というような人間の上下の感覚や人間関係の分類というのは、人類の長い歴史を見る限り、大勢の人達を武力で制圧した「王様」とか「皇帝」と呼ばれるような人達が、たくさんの人達を自分達の簡単な命令一つで自由に動かし支配するために、なかば強制的に「これは尊い教えだ」とか、「これが宇宙の真理だ」などと言って教えた一種の「政治宗教」の教義の内容だったということです。
ですから、これは多分、今も昔も一緒なのではないかと私は素朴に考えているのですが、女性でも男性以上に頭が良く力の強い人なんて、世の中にはいくらでもいたでしょうし、また年齢が下でもリーダーシップがあり、武術やお金儲けのうまい人も世の中にはいくらでもいたでしょうから、こうした世の中の実態を見る限り、「男は女より偉い」とか、「年上の人間は年下の人間を自由にこき使ってよい」とか、「生まれながらに尊い偉い人と卑しいダメな人がいる」などというような考え方というのは、その時々の権力者の人達が武力をちらつかせながら無理やり強要するか、もしくは美辞麗句で固めた宗教的な仮面をつけて、多くの人々に無理やり押し付けない限り、多くの人々が自然発生的にそうした身分の上下の感覚であるとか、服従や忠誠の習慣を持つとは、私には到底思えないということなのです。
追伸
これは普通の一市民の感覚だとなかなかよくわかりづらいのですが、現代であっても昔であっても、いわゆる政治家とか役人の人達からすると、それが良い意図であれ、悪い意図であれ、たくさんの人達を彼らの命令通りに動かすのは、とても大変なことだったということなのです。
それで、いろいろな試行錯誤の末に考えられたのが、「宗教をうまく使えば、多くの人々にすぐに反感を買うような露骨な利益誘導や強制力を使わなくても、多くの人々をわりと簡単に彼らの言う通りに動かせるのではないか」などというように、元々あった宗教のような教えを政治家の都合でかなり手直しさせて、その地域や時代の特色に合わせた、いろいろなタイプの「政治宗教」が発明されるようになったということなのですが、この後がややこしくて、その後、これにだんだん尾ひれはひれがついてゆき、「やれ言う事を聞かないと大変な地獄に堕ちるぞ」とか、「言う通りにしていれば、特別な天国に入れるぞ」などというように元々の純粋な宗教的な理由とはかなり違った、いろいろな誇大広告みたいな教義の内容がどんどん増えてゆくことになったということなのです。
その結果、政治がものすごく介入した歴史的な宗教というのは、これは世界中、ほとんどどこでも一緒だと私は考えているのですが、たいてい、どこもたくさんの人達を実質的にマインドコントロールするための政治の一手段みたいなものにだんだんすり替えられてゆくような歴史的な経緯をたどってゆくことが非常に多かったということなのです。
ですから、多くの人々が単純に考える以上に、意外と宗教の中には政治的な要素があるとか、同じように教育の中にも政治的な意図がある、ということは、本当は現代のような民主主義の時代には、もうそろそろ多くの人々がよくある社会常識の一つとして理解しておいてもよいのではないか、というように私は率直に感じております。
Cecye(セスィエ)