つまり、はっきり言ってしまうと、毎日、わりとその時々の気分や感情に流されてしまうことも多い普通の大多数の人々が、投票によって選ぶその国や地方のトップや、議会の議員の性質としては、気分や感情で動くような人は全く向いていなくて、多くの普通の人々の生活感覚ぐらいはよくわかっているにしても、言ってみれば、学者や経営者のような職業ができるくらいの、できるだけ優秀な人物を選んでゆかなくてはならないようなところがあるのです。
ですので、そうした選挙の性質上、例えば、普通の生活では、「ああ、選挙では、自分が好きな政治家を選んでいいんだよな。それなら、あいつは面白そうだから、よし、あいつに投票することにしてみよう」「なんか、あいつは偉そうで虫が食わない。もっといろいろ政治をかき回してくれそうな、あいつに投票することにしよう」「政治なんて、ろくでもないので、とにかく何でも反対してる野党に投票しておこう」「あの人が好きだから、あの人に投票します」などというような感覚で選挙の投票に行く人が多いと、どうしても、そうした国の政治というのは、最初は良くても、だんだん、ごちゃごちゃと混乱するようになってゆきやすいようなところがあるのです。
こうした観点から見ると、要するに政治の世界であっても、巷の芸能界やインターネットの世界とほぼ同じような感覚で、「ああ、この人は面白い!」「なんて過激な意見で刺激的なんだ!」「言ってることが普段聞かないようなことばかりで、すっかり圧倒された」「言動が過激で強く印象に残った」「今すぐ政治をぶっ壊すなんて、なんてロックなんだ」「何かと戦うなんて、凄そうだな!」「今の政治はみんなろくでなしとか言ってて、カッコいい!」「あの人はルックスや衣装が素敵だ!」などというような感じで政治家選びをしていると、選挙の際は、それで良かったとしても、そうした人々が実際の政治の世界に入っていっても、なかなか思ったような政治の流れには全くなってゆかないことが多いようなのです。
それはなぜなのか、というと、人類の歴史では、昔から政治家の横暴で、多くの人々がとても苦しんできた歴史があるので、近現代の民主制度では、とにかく、そうした政治家の横暴が起きないように、憲法や法律で細かく政治家の権限が制限されていたり、また権力分立の制度で、政府と議会と裁判所などの間で、お互いに権力が行き過ぎないように対立させてあったりするものなので、はっきり言ってしまうと、政治家が何かやりたいことがあっても、それが絶対に多くの人々への行き過ぎた横暴にならないように、そうした政治権力をかなり厳しく制限するような仕組みが、政治の世界には、かなり入念に細かく導入されているようなところがあるからなのです。
Cecye(セスィエ)