Light Symbol

「第二次世界大戦当時のソ連とスターリンについて」に幾つかの文章を追加しました

 先日載せた「第二次世界大戦当時のソ連とスターリンについて」の文章に、次の文章を追加しています。

 

 Part 1に次の文章を追加しています。

※戦時中の死傷者の人数については、国によって、主張が違っていたり、また時代によって、公表されている人数が増えたり減ったりすることがあるようなので、正確な人数は、よくわからないようなところもあるようです。

 

 Part 3に次の文章を追加しています。

※1941年に当時のドイツが、ソ連に軍事侵攻する前までは、当時の「日独伊三国同盟」にソ連が加わるような検討と話し合いが、当時のソ連も含めた各国で行われていたようです。

※当時のソ連は、当時のバルト三国に対しても、軍事的な恫喝によって、ほぼ同じような非人道的な占領や粛清を行っていました。

 

 Part 5に次の文章を追加しています。

※ただし、当時のソ連は、当時のドイツ軍のかなり大規模な移動の情報を事前につかんでいたらしいことや、また、当時のイギリスの首相チャーチルが、事前にスターリンにそうした情報をつかんで警告していたと述べていることや、それから、その2ヶ月前の1941年4月に、おそらく当時のソ連としては、東西両方面での軍事衝突を避けるために、急いで当時の大日本帝国と「日ソ中立条約)を結んでいることなどから考えると、当時のスターリンを初めとするようなソ連の指導者達は、事前にある程度、そうした情報を知ってはいたが、当時のドイツ軍があまりに強大だったので、うまく対応できなかったのかもしれない、というような見方もできます。

 

※つまり当時のナチス・ドイツは、ヨーロッパ東部の軍事大国、ソ連と準軍事同盟を結ぶことで、ヨーロッパの西部方面の、特に当時は、かなりの軍事大国だったフランスにも軍事力を集中して侵攻し、占領することができたのですが、その結果、当時のナチス・ドイツとしては、ヨーロッパ西部の防衛をあまり気にする必要がなくなったために、今度はヨーロッパ東部のソ連に軍事侵攻できるような状況になっていったようなのです。

※ですので、もし当時のソ連がナチス・ドイツと準軍事同盟を結んで、ナチス・ドイツと一緒にポーランドなどのヨーロッパの国々に軍事侵攻しなかった場合には、当時のドイツの東側には、ポーランドなどのヨーロッパの国々があり、また西側には、フランスやイギリスなどのヨーロッパの国々があったので、その両者に挟まれた状況でのナチス・ドイツの軍事的な急拡大は、かなり難しかったのではないか、と思われます。当然、そうした状況の場合には、その後のナチス・ドイツによるソ連への軍事侵攻もなかったのではないか、と思われます。

※ですので、今日の視点で客観的に見る限り、1939年にナチス・ドイツと共にポーランドなどのヨーロッパの国々に軍事侵攻した当時のソ連は、ほぼ枢軸国であったと判断してよいのではないか、と思われます。しかし1941年6月に当時のソ連が、ナチス・ドイツから軍事侵攻を受けるようになると、7月以降は、当時のイギリスと、その時点で共通の敵となったナチス・ドイツと戦うために軍事同盟を結んだり、当時のアメリカからも大規模な軍事支援を受けるようになっていったので、その辺りから当時のソ連は、連合国の一員に加わるようになった、ということです。

 

 

Cecye(セスィエ)

2022年7月6日 9:03 PM, 政治 / 歴史 / 社会、文化 / 軍事



«

»

おすすめ記事

過去の記事