これは少し前にも述べたことがあるのですが、明治時代に作られた新たな天皇制は、明治時代の指導者達が元々予定していた天皇制のイメージというものを遥かに超えて、いつの間にか勝手に一人歩きして、現実の天皇という単なる一人の人間の知性や能力を遥かに超えるような偉大な天皇のイメージに肥大化していってしまったようなところがあるのですが、これとほぼ同じようなことが大日本帝国憲法にも起きたのでないか、ということなのです(参考)。
つまり当初、おそらく明治時代の指導者達は、「これくらい誇大宣言して、ものすごく偉大な憲法だということにしておけば、その時点で何とか近代国家らしい体裁を維持することに成功している大日本帝国は、当分の間、欧米列強に負けないだけの立派な国づくりをしてゆけるだろう」という程度の思惑で憲法を定めたと思われるのですが、それが時代の推移と共に、もし当の明治時代の指導者達が生きているのであれば、「そこまで憲法がものすごいなんて信じたらダメでしょう」とか、「いや、あの時代ならプロイセンの憲法が手本になるけれど、ある程度、国民が自立して十分賢くなってきたら、イギリス系の法体系の憲法に変えないとダメでしょう」とか、「そこで欧米に楯突いて大戦争を始めたら、今までの国づくりが全部吹っ飛んでしまうから、天皇も含めて若い人達はもっと慎重に国の運営をやってもらわないと・・・」(明治時代の指導者達は、いろいろ裏のことを知っていたので、元々、天皇がそんなに偉いとは思っていなかったと思われるふしがあります)とか、「国は国際間の調和やバランスの上に成り立っているんだから、そこで憲法を盾に取って、天皇やら統帥権やら言い始めて、日本だけの好き勝手をやったら、もう日本も終わりでしょう」などと彼らに一喝されるようなことを、後の時代の人々は、天皇制や大日本帝国憲法に基づく国家のあり方にあぐらをかいて、次々と勝手にやり始めるようになっていったようなのです。
ここまでで「大日本帝国憲法」についてのお話はおしまいですが、あと補足的な話が幾つか続く予定です。
多分、この文章を読まれた人は、かつて不磨の大典とも呼ばれた大日本帝国憲法の話を聞いても、それほど無前提にものすごいものとは考えなくなったのではないでしょうか。
Cecye(セスィエ)