二つめは、これは現在の日本の教育状況だと、まだ、かなりまずい状況になってしまっているのですが、多くの人々が、あまりにも上司の顔色ばかり伺(うかが)いすぎるような教育を受けてしまっているために、客観的に見る限り、「一応、上司に報告するのは当たり前としても、その仕事の出来不出来ぐらい、自分ではっきり判断できるでしょう」とか、「普通、そんなことまで上司の人が口出ししてくるわけないのだから、自分の仕事にもっと自信を持ってもよいのではないか」というようなところまで、なぜか多くの人々が、多少気にしすぎた状況になっていて、様々な人間関係の摩擦や軋轢(あつれき)を抱えてしまうような不幸な労働環境になっていることが、時折あるようなのです。
その理由は、そうした職業に就く前の段階での現在の学校教育での評価が、それぞれの学生のテキストの修得を計るためのものではなく(つまり最低限、マスターすべきことをマスターすればOK、というような単純な目的志向の基準ではなく)、どの人にも単純一律な授業を受けさせて、その結果、テストの点数だと、100点、80点、60点、40点・・・(以下省略)とか、通知表の評価だと、5、4、3、2、1という具合に、それぞれの人が、どの程度できるか、つまり、どの程度のレベルの人間なのか、というような人間の上下を決めるための手段になりすぎているからなのではないか、と思われます(つまり普通、社会では、職場でも家庭でも、どうしても出来なくてはいけないことは、とにかく、できるようにすることが大切なのに、そこを何でも、いちいち上下をつけて、よしとして満足してしまうのは、本末転倒なのではないか、ということです)。
そうした学校教育の結果、あまりにも多くの人々が、「あの人は、私より勉強ができるので上だけど、この人は、私より勉強ができないので下」とか、「要するに私は、いつも60点、80点なので完全じゃないのよ」とか、「通知表を見ると、結局、私って、こういうレベルの人間なのよね」などというように、人生の最初の十数年の間、すっかり心の底から一切何の抵抗も提案もできないような状況で、一方的に評価されすぎているのではないか、ということなのです。
ところが、本当は、もっと優れた教育カリキュラムである場合には、そうした感覚ではなく、「みんなやれば、これくらい簡単にできるんだよ」とか、「私がいた学校や熟では、それぞれの人の得意不得意や、できるようになる速さの違いはあったけど、みんな80点以上だったよ」とか、「これは社会に出て、知っていないといけない、できないと困ることだから、僕達は、たいていのことはみんな知っているし、できるよ」とか、「私は、私自身も含めて、どの人もみんな素晴らしいと思っているし、良いところは素直に賞讃するし、逆にダメなところは素直にダメって言えるよ」などというように、一人一人の人が、もっとしっかりとした自信や自尊心を持った形で、お互いに尊敬し合い、仲良く愛し合えるような人間関係が作れるのではないか、ということなのです。
それでは、現在のような状況では、いったい、どうすればよいのか、というと、これは、わりと単純な話になるのですが、自分の一つ一つの仕事の評価について、自分の上司に当たるような人に直接、素直に評価を聞いてみるとか、特に大した理由もなく、自分に当たってくるような人がいたとしても、すぐに反抗的な態度はとらずに、できるだけ率直な意見の交換を試みてみるとか、自分が、どうしても我慢できないような強いストレスを感じる場合には、あまりいつまでも自分一人で我慢しようとせずに、自分が感じていることを率直に相手に伝えて、相手の意見を聞いたり、何らかの改善を試みてみるような対策が大事なのではないか、と思われます。
※多分、そうしたことをある程度、仕事の経験のある上司のような人に聞くと、その時の自分の考えとはかなり違って、「これは、こういうことなんだよ」とか、「とにかく、こうしないといけないの」などというように、パッと言い返されてしまうことも多いかもしれないのですが、ただ、それでも何も聞かずにダラダラ、あれこれ悩み続けるよりかは、自分の言いたいことがある場合には、一言でも、あまり角を立てないような形で尋ねて、相手の考え方を素直に聞いてみることが、とても大切なのではないか、と思われます。
Cecye(セスィエ)