今回から少し変わったテーマ、人間の信用や信頼感について、述べてみたいと思います。
1、人間は、何事に関しても、ほぼ無意識のうちに「何をどの程度、信用し、信頼すればいいのか?」ということを、一つ一つ判断しながら生きているものである
まず最初に、人間の信用や信頼感の感覚について、幾つかの観点から考えてみたいと思います。
①人間は、他の人間や生き物に対しても、また機械や物に対しても、ほぼ無意識のうちに「何をどの程度、信用し、信頼したらいいのか」ということを、一つ一つ判断しているものである
まず第一には、基本的に人間というのは、他の人々に対しても、また他の生き物や、あるいは、身の回りの機械や物などに対しても、「この人は、この程度は信用できるが、この限度以上のことは信用できない」とか、「この機械は、この程度、信頼できるが、この限度以上のことは信頼できない」などというように、そうした人間や生き物や機械や物に関して、「この程度までなら信頼できるが、これ以上は信頼できない」とか、あるいは、「この件に関しては、十分信用できるが、この件に関しては、それほど信用できない」などというように、その信用できる程度や範囲というものを、どこかの段階で、ほぼ無意識のうちに、一つ一つ判断しているようなところがあるということです。
もう少し具体的に言うと、例えば、人との関係であれば、特に口に出すことはなくても、「ああ、あいつは、お金のことはきっちりしているので、別に1万円やそこら貸しても、よほどのことがない限り、まずは確実に返してくれるだろう」とか、「今までの経験だと、この機械は、これくらいの扱い方をしたくらいでは、全然壊れないだろう」などというように、ほぼ無意識のうちに人間や生き物に対しても、また機械や物に対しても、一つ一つ判断しているようなところがあるのです。
それでは、そうした信用や信頼感は、絶対的なものなのか、というと、そんなことはなくて、たいてい、これも無意識のレベルで判断していることが多いのですが、「ああ、だけど、あいつの収入はこれくらいだから、何十万円かのお金だったら、まあ、いざとなれば、完全にあげるぐらいのつもりで貸せるけれども、それ以上の場合は、銀行か、ローン会社に頼んでもらうしかないな」とか、「この機械は確かに頑丈だけど、絶対に水に付けたり、投げたりするような、そんな乱暴な扱いはしないよ」などと言う具合に、たいてい、一つ一つ信用の限度や条件のようなものを結構、細かく判断して、決めていることが多いということです(参考1、参考2)。
②神仏への信仰に関しても、現実には、一定の限度や条件付けのもとに営まれていることが多い
第二には、これは、少し変わった話になるのですが、それでは、宗教的な信仰、つまり、神仏への信仰に関しては、そうした限度や条件付けというのは全くないのか、というと、これは、あまりはっきりと公言されることは少ないのですが、たいてい、どんな人であっても、そうした神仏への信仰に関しても、いろいろな意味で、限度や条件付けをしていることが多いように思われます。
もう少し具体的に言うと、例えば、神仏への礼拝や瞑想などは、しっかりやるけれども、毎日の生活の糧を稼ぐ労働やお金のことに関しては、できるだけ個人個人が、お互いに助け合いながらであっても、しっかり自立できるように心掛けているとか、信仰や教えは大事にするけれども、こと政治や経済のルールに関しては、その国や土地の習慣や国際的なルールに、できるだけ従うようにしているとか、神仏への信仰は、できるだけしっかり持ちたいけれども、その宗教の成立年代があまりにも古いために、現実の生活の仕方やルールは、なるべく現代の生活に合わせるようにしているなどというようなことが、たいてい、どの宗教にもあったりするものなのです。
ですから、こうした点から見る限り、宗教的な信仰、または神仏への信仰に関しても、現実には、この限度や条件の範囲内であるなら、神仏への信仰は可能だが、その限度や条件の範囲を越える内容に関しては、やってもやらなくてよいことにするか、もしくは、もう現代では、ほぼ全く不可能なので、全くやらないことにしているなどというような内容が、やはり神仏への信仰に関しても、ほぼ同じようにあるということが言えるようです。
Cecye(セスィエ)