③そろそろ神道も、日本古来の本当の「惟神(かんながら)の道」に立ち返り、もっと合理的に気軽に楽しく悦んで、神と遊び、神と戯れるような「神遊び」や、神と人間との直接交流を行う「神降ろし」の原点に立ち返ってもよいのかもしれない
第三には、これは長年、神道をやっている人はかなり分かると思うのですが、神道最大の弱点は、とにかく神道では、精神的にも肉体にも、かなり清くて正しい状態になれるのですが、ところが、神道をやっている人に、「本当に人間としての幸福や満足を感じていますか?」、と尋ねると、ちょっとそう簡単には、「はい、そうです」とは、なかなか言いきれないようなところにあるのではないか、ということなのです。
その理由を考えてみると、大まかに言って、次のような三つの理由があるのではないか、と思われます。
まず一つめは、神道というのは、儀式や作法はかなりきっちりしているにも関わらず、それでは、「それは、何のためにするのですか?」、とか、「どうして、こういうことを続けるのですか?」、と聞かれると、結構、途端に何が何だかよく分からなくなる人が多いようなのです。
つまり、神道の場合、身分社会だった昔からのしきたりや慣習が結構今でも強く残っているようなところがあるので、その弊害で、「いったい、なぜ、それをするのか?」、とか、「それは、本当に霊的に効果があるのか?」、とか、「その目的をもっと現代的に楽しく実現するには、どうすればいいのか?」、というような視点が、多少足りないようなところがあるようなのです。
その点で、私が強く感じるのは、たとえ古式ゆかりの神道のような宗教であったとしても、もっと霊的かつ合理的、かつ多くの人々の幸福の実現というような観点から、残すべきものはしっかり残すが、現代的に止めるべきことや変えるべきこと、それから、新しくやるべきことは何なのか、ということを、再度しっかり考え直して、もっと柔軟にいろいろな新しいことにチャレンジしていってもよいのではないか、というように感じております。
二つめは、これは、ほぼ完全に神の立場からの発言なのですが(私の意識とは少し違います)、地上の世界では、あちこちで多くの人々が、本当に一生懸命、いろいろな祈祷や儀式をやっているのですが、残念ながら、多くの人々は、そうした祈祷や儀式にばかり気を使い過ぎていて、肝心要の神そのものの意思というものに、ほとんど気がつかないようなのです。
それというのは、神道ゆかりの祈祷や儀式をやっていても、なぜか多くの人々は細かな作法や人目ばかりに気を使い、肝心の神の存在、つまり、霊的には、本当にそこに神が来ているのに全く気がつかないことが多いので、多くの神々の機嫌を損ねていることが非常に多いのです。
ですから、昔の「神遊び」、「神降ろし」とまでは行かないまでも、神職の人々はもう少し肩の力を緩めて、神仏というのは、いつもいつも目をしかめて、にらんでいるわけではないので、やるべきことをきっちりやったら、もっと気軽に霊的に神仏と交流してみる、とか、神仏の意思を汲み取ってみる、というような、もう少し楽しく気軽で優しい神道のあり方を模索してもよいのではないか、というように感じております。
三つめは、これは、いにしえの神道でも、また現在残っている少し秘密がかった神道でも、しっかり残っている内容になると思うのですが、霊的に清い正しい、ということが多少行き過ぎてしまい、単純に楽しい、嬉しいというような幸せな感覚を否定したり、人間的な開放感や大らかさや性欲や物欲をあまりにも罪悪視しすぎたり、それから、立派な人は、絶対に真面目でないといけない、というような真面目イズムをあまりにも強く打ち出しすぎてしまうと、本当の宗教というよりかは、現代の言葉で言うと、まるで単なる物や機械やロボットのような生き方になってしまうので、大変注意が必要なのではないか、ということなのです。
つまり、元々の惟神(かんながら)の道とは、神仏の心や自然の心も大切にしつつ、かつ、その中で人間として、あるいは、生き物として、いかに最も楽しく幸せに生きてゆくか、ということが目的であったので、その手段としての礼拝や儀式といった作法や形にあまりにも硬く捕らわれてしまうと、そうした惟神の道、人間としての本当の幸せの道から大きく外れていってしまうので、注意が必要なのではないか、ということなのです。
その点、日本は、外国の宗教のように、あまりきつい戒律や道徳を受け入れてこなかったので、こうした内容は、あまり文字や言葉で直接表現されることは少ないのですが、その時々において、多くの人々がうまく案配をつけながら、最大多数の自然体の幸福を目指していた歴史がとても長かったのです。それが近現代に入ると、国としての独立や外国文化の影響から、そうした自然体の幸せイズムがかなりごっそりと抜け落ちてしまったようなところがあったのです。
ですから、この辺りで、元々の神道に流れる惟神(かんながら)の道を再興してゆくためには、現在の神道の大きな特色である、ちょっと硬めで真面目な印象のある祈祷や儀式を、少しずつでよいので変えてゆき、昔のように、できるだけ楽しく幸せに神と共に遊び戯れる「神遊び」や、神と人間が直接交流する「神降ろし」の精神を再興して、現代人に失われがちな、本来の人間としての自由性や大らかさや楽しさや幸せを再確認してゆけるような、新たな神道のあり方を模索していってもよいのではないか、と思う今日この頃です。
Cecye(セスィエ)