今回から、霊的宇宙的に見た、現在の地球の宗教についての見解を書いてゆきたいと思います。
現在の地球の主だった宗教は、創造主や光の存在達の権威を利用して、多くの人々を縛り、操るための単なる支配の道具になっている
まず最初に、霊的宇宙的に見た場合には、現在の地球の主だった宗教というのは、どんなに素晴らしく、立派そうに見えたとしても、ほぼ全部、この宇宙における創造主も含めた、光の存在達の権威を利用して、多くの人々を縛り、操ってゆくための、単なる支配の道具にしか見えていない、ということを、はっきりさせておきたいと思います。
その理由としては、大体、以下のような大きく二つの理由になります。
1、地球の主だった宗教は、ほぼすべて、神仏との直接接触、直接交流を目指すような信仰のスタイルではなく、そうした神仏との間に、人間の取り次ぎを入れるようなタイプの、神仏との間接接触、間接交流による疑似宗教のスタイルになっている
まず第一の理由は、現在の地球における、ほぼすべての主だった宗教というのは、多くの人々が、そうした創造主や光の存在達と、直接、交流して、自分の考えを言ったり、いろいろな考えを聞くようなタイプの、言ってみれば、神仏との直接接触、もしくは、神仏との直接交流による信仰のスタイルではなく、そうではなく、そうした創造主や光の存在達との間に、何らかの書物を通したり、あるいは、誰か偉い人間による取り次ぎを通したりして、間接的な形で、一方的に、相手の話を聞き、受け入れさせられるようなタイプの、言ってみれば、神仏との間接接触、もしくは、神仏との間接交流による信仰のスタイルになっているからなのです。
神仏と人間との間に、距離があればあるほど、神仏は、より理想家され、神聖視され、一種の偶像のような存在になってゆきがちだが、神仏と人間との間の距離が狭まれば狭まるほど、たとえ、神仏のような偉大な光の存在であったとしても、そう簡単に理想化され、非人間的な形で、偶像化されたりしなくなってゆくものである
これは、今日のように、インターネットを初めとするメディアの発達した時代のみなさんには、非常に分かりやすい話なのではないか、と私は思うのですが、要は、一昔前の銀幕のスターや、テレビのアイドルのように、多くの人々が、ものすごい憧れをもって、うっとりと神聖視して、そうした大スターを見ていたような時代と違って、現代の時代というのは、たとえ、どんなに有名な大スターであったとしても、ちょっとインターネットを調べると、個人のブログやツィッターを読めば、「昨日は、どこそこの焼肉店で、○○を食べた」、とか、「ちょっと前に、個人的に、ものすごく楽しいことがあった」、とか、「悲しいことがあった」、などということが、誰でも、すぐによく分かるような時代になっているので、はっきり言うと、こうした現代のようなインターネットの発達した時代になると、そうした大スターのような人達を、単純に理想化して、神聖視するような感覚なんて、もう完全に、どこかに吹き飛んでしまい、そうではなく、「自分と同じように、楽しいことも、悲しいことも体験している、あの人が、大好きだ!」、とか、「あのアーティストは、大好きだけど、別に、その人が、ものすごく特別とは思わない」、というような感覚を持っている人が、ほとんどなのではないか、ということなのです。
そうすると、これは、現代のような時代だと、たいていの人が、もうすでに、よく知っているような内容になるのではないか、と私は思うのですが、「大スターの所属するテレビ局や芸能プロダクションの発表する情報と、自分が、インターネット上で知った情報が食い違っている場合には、まずは、いっけん、権威はありそうでも、テレビ局や芸能プロダクションの言ってることは、あまり信じない」、とか、「あの大スターの人は、テレビや映画で見た時には、いっけん、ものすごくシャイで、クールな感じがしていたけど、ブログやツィッターをフォローしてみたら、結構、田舎臭くて、気さくな人だった」、などというようなことを、現代の時代だと、ほとんどの人が、よく知るようになってきている、ということなのですが、実は、こうした大スターとほとんど同じようなことが、宗教界の大スター、例えば、イエス・キリストであるとか、仏陀やアッラーに関しても、ある程度、同じように言えるようなところがあった、ということなのです。
つまり、一昔前の宗教であると、とにもかくにも、「神仏は、この世界では、喩えようもないほど、最高に偉大な方である」、とか、「神仏は、普通の人間とは、全く違って、いかなる困難にも痛みにも耐え、全人類を愛し抜かれるような偉大なお方なのだ」、というような宗教上のアナウンスが、非常に多かったのですが、これは、よくよく冷静に考え直してみれば、誰でも、よく分かるような内容なのではないか、と私は思うのですが、実は、これらの宗教上のアナウンスというのは、言ってみれば、先ほど述べたような、テレビ局や芸能プロダクションの公式発表と、何ら変わりないのであって、よく考えてみると、そうした情報自体の本当のソース(源)に関しては、その宗教に属する、ほとんどすべての人々は、実際に、本人に会って、直接、話を聞いたわけでもなければ、また、実際に、本人に会って、直接、いろいろな指導を受けたわけでもなかった、ということなのです。
一昔前の映画やテレビの時代の大スターやアイドルが、インターネットの時代に、より身近で親しい存在に変化していったように、これからの時代には、たとえ、神仏のような偉大な光の存在であったとしても、多くの人々が、あまりに一方的に崇めて、その本質が、全く理解されないような状況というのは、だんだん変わってゆくことが望ましい
こうした観点から考えてみると、実は、そうした宗教界の大スターに当たるような神仏に関しても、ここ数十年における大スターについての多くの人々の認識の変化と、ほとんど同じような認識の変化が、本当は、必要なのではないか、というように、私は率直に考えているのですが、実際、私が、霊的に調べてみる限り、この地球の宗教における、ほとんどすべての神仏のような存在というのは、全員、現在の地球のほとんどすべての人々に対して、そういた大スターの人々が、ファンの人々を見るような感想、つまり、「自分達のことを熱烈に崇めてくれるのは、いいんだけど、少しは、自分達の直接の声を聞いてから、祈ったり、瞑想したりしてもいいのに」、とか、「この信仰と称する念縛りのようなことをやめてもらわないと、いつまで経っても、彼らに、私達の考えを、直接、伝えることができないな」、などというように、実際には、結構、冷めた、というより、もっとはっきり言うと、かなり引いた感じの対応でもって、現在の地球の人々を見ていることの方が、圧倒的に多かった、ということなのです。
このように、この宇宙の創造主や光の存在達に当たるような神仏のような存在というのは、現在の主だった宗教の神仏についての見解とは、まるで違って、地球の主だった宗教に関しては、「これは、自分達と人間の間を、決定的に分裂させ、仲違いさせるための、神仏と人間の間を分裂させるタイプの間違った宗教形態だ」、とか、「自分達の考えを、一部の人間だけが、さもすべて知り尽くしているかのごとく、間に入って、説明しようとするなんて、本当に、いい加減な宗教だ」、というような認識しか、実際には、ほとんど持っていない、ということを、ここで明らかにしておきたい、と思います。
Cecye(セスィエ)
2011年5月13日 9:33 PM, おすすめ記事 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観